大政翼賛会
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大政翼賛会は戦時国民動員のための政府の外郭団体。1940年6月24日、近衛文麿元首相は強力な挙国政治体制の確立を主張して枢密院議長を辞職、新体制運動が始まった。各政党は八月中旬までに解散し、運動に参加の意を示した。第二次近衛内閣が公表した「基本国策要綱」において、日中戦争勝利に向けての挙国一致のために新国民組織の確立がうたわれた。この新国民組織は政党でなく国民運動を推進するための組織とすること、首相が総裁となること、中央本部のほか道府県、群市、町村に支部を設け、本部に中央協力会議を、各支部にも協力会議を設置することなだを決定した。 | 大政翼賛会は戦時国民動員のための政府の外郭団体。1940年6月24日、近衛文麿元首相は強力な挙国政治体制の確立を主張して枢密院議長を辞職、新体制運動が始まった。各政党は八月中旬までに解散し、運動に参加の意を示した。第二次近衛内閣が公表した「基本国策要綱」において、日中戦争勝利に向けての挙国一致のために新国民組織の確立がうたわれた。この新国民組織は政党でなく国民運動を推進するための組織とすること、首相が総裁となること、中央本部のほか道府県、群市、町村に支部を設け、本部に中央協力会議を、各支部にも協力会議を設置することなだを決定した。 | ||
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1941年初頭の第76回帝国会議では、大政翼賛会の方針に対し左翼色がうかがわれるとか、ほかに政治団体がない中では、天皇が大政翼賛会総裁以外を首相に任命することは事実上無意味となるので天皇の大権が否定され、議会も有名無実となるので、同会は違憲的存在であるといった批判が噴出した。議会では保守議員が多数で彼らは翼賛会の全体主義的傾向を強く警戒したのである。政府はこれらに対して論破することができず、同会を法的に政治団体とはせずに、これに伴う中央本部の組織と人事の刷新を約束した。議会終了後、中央本部の役員および事務局の幹部は総退陣し、中央本部が改組された。 | 1941年初頭の第76回帝国会議では、大政翼賛会の方針に対し左翼色がうかがわれるとか、ほかに政治団体がない中では、天皇が大政翼賛会総裁以外を首相に任命することは事実上無意味となるので天皇の大権が否定され、議会も有名無実となるので、同会は違憲的存在であるといった批判が噴出した。議会では保守議員が多数で彼らは翼賛会の全体主義的傾向を強く警戒したのである。政府はこれらに対して論破することができず、同会を法的に政治団体とはせずに、これに伴う中央本部の組織と人事の刷新を約束した。議会終了後、中央本部の役員および事務局の幹部は総退陣し、中央本部が改組された。 | ||
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+ | == 大政翼賛会の変貌 == | ||
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+ | 議会で否定され、人事が刷新された大政翼賛会は本部役員および事務局幹部が中央省官庁のエリート官僚の出向者となり道府県支部長も知事の兼任となった。政策局は廃止され大政翼賛会独自の政策を示すことはなくなり、政府の示す政策を実現するために、国民を動員し訓練することを目的とする組織となった。つまり大政翼賛会は当初は全体主義政党になるような方向性を含んでいたが最終的には戦時国民動員のための政府の外郭団体となったのである。ただし国民動員のための各種の活動はほかの政府の外郭団体も行っていたため混乱が見られた。そこで政府が、42年に大日本翼賛壮年団、大日本産業報国会、大日本婦人会などを大政翼賛会の傘下においた。これにより大政翼賛会は当時の日本で最大規模の公的団体となったのである。 | ||
+ | 以後、翼賛会は、戦場精神昂揚運動、国民総決起運動などの国民運動を行うなどしたが、45年6月に本土決戦を想定した国民組織として国民義勇隊が設置されることになったため解散した。 | ||
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+ | == 参考文献 == | ||
+ | 『アジア・太平洋戦争時典』(2015)吉川道郎 吉川弘文館 |
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大政翼賛会
大政翼賛会は戦時国民動員のための政府の外郭団体。1940年6月24日、近衛文麿元首相は強力な挙国政治体制の確立を主張して枢密院議長を辞職、新体制運動が始まった。各政党は八月中旬までに解散し、運動に参加の意を示した。第二次近衛内閣が公表した「基本国策要綱」において、日中戦争勝利に向けての挙国一致のために新国民組織の確立がうたわれた。この新国民組織は政党でなく国民運動を推進するための組織とすること、首相が総裁となること、中央本部のほか道府県、群市、町村に支部を設け、本部に中央協力会議を、各支部にも協力会議を設置することなだを決定した。
大政翼賛会への批判
1941年初頭の第76回帝国会議では、大政翼賛会の方針に対し左翼色がうかがわれるとか、ほかに政治団体がない中では、天皇が大政翼賛会総裁以外を首相に任命することは事実上無意味となるので天皇の大権が否定され、議会も有名無実となるので、同会は違憲的存在であるといった批判が噴出した。議会では保守議員が多数で彼らは翼賛会の全体主義的傾向を強く警戒したのである。政府はこれらに対して論破することができず、同会を法的に政治団体とはせずに、これに伴う中央本部の組織と人事の刷新を約束した。議会終了後、中央本部の役員および事務局の幹部は総退陣し、中央本部が改組された。
大政翼賛会の変貌
議会で否定され、人事が刷新された大政翼賛会は本部役員および事務局幹部が中央省官庁のエリート官僚の出向者となり道府県支部長も知事の兼任となった。政策局は廃止され大政翼賛会独自の政策を示すことはなくなり、政府の示す政策を実現するために、国民を動員し訓練することを目的とする組織となった。つまり大政翼賛会は当初は全体主義政党になるような方向性を含んでいたが最終的には戦時国民動員のための政府の外郭団体となったのである。ただし国民動員のための各種の活動はほかの政府の外郭団体も行っていたため混乱が見られた。そこで政府が、42年に大日本翼賛壮年団、大日本産業報国会、大日本婦人会などを大政翼賛会の傘下においた。これにより大政翼賛会は当時の日本で最大規模の公的団体となったのである。 以後、翼賛会は、戦場精神昂揚運動、国民総決起運動などの国民運動を行うなどしたが、45年6月に本土決戦を想定した国民組織として国民義勇隊が設置されることになったため解散した。
参考文献
『アジア・太平洋戦争時典』(2015)吉川道郎 吉川弘文館