横浜市
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面積429.89平方キロメートル | 面積429.89平方キロメートル | ||
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横浜市は県東部に位置し、東は東京湾に面して房総半島を望み、西は東京都町田市、大和市、藤沢市、南は鎌倉市、逗子市、横須賀市、北は川崎市に隣接する。市域は多摩丘陵が東京湾に落ち込む東端にあたり、洪積台地の谷間を鶴見川、帷子川、大岡川、柏尾川などの比較的緩やかな河川が流れていて沖積平野を作り、その上に街並みが形成されている。海岸線はほとんど埋められていて石油化学コンビナートを中心として臨海工業地帯となり、また三方を小丘陵に囲まれていて十分な水深を持つ横浜港は、各種の埠頭、桟橋、水堤、倉庫などの設備を具備する内外の海上交通の拠点である。 | 横浜市は県東部に位置し、東は東京湾に面して房総半島を望み、西は東京都町田市、大和市、藤沢市、南は鎌倉市、逗子市、横須賀市、北は川崎市に隣接する。市域は多摩丘陵が東京湾に落ち込む東端にあたり、洪積台地の谷間を鶴見川、帷子川、大岡川、柏尾川などの比較的緩やかな河川が流れていて沖積平野を作り、その上に街並みが形成されている。海岸線はほとんど埋められていて石油化学コンビナートを中心として臨海工業地帯となり、また三方を小丘陵に囲まれていて十分な水深を持つ横浜港は、各種の埠頭、桟橋、水堤、倉庫などの設備を具備する内外の海上交通の拠点である。 | ||
- | 3、第二次世界大戦後繁栄と課題 | + | == 第二次世界大戦後繁栄と課題 == |
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敗戦後は横浜は米軍の基地となり、港湾施設の9割、中心部の主要な建物、施設を中心に全市街地の約三割に及ぶ地区が接収された。昭和二十七年に相当な地区が返還されたが、現在も市域に米軍の基地が残る。同二十五年の朝鮮戦争を機に、軍需品の特需によって京浜工業地帯は活気を取り戻した。昭和三十五年以降の高度経済成長期には京浜工業地帯の再整備と産業基盤の整備が重点的に進められ、山下埠頭、本牧埠頭の建設。大黒町や根岸湾の埋め立て、戸塚区、港北区などの内陸工業地帯の造成、工業用水道の敷設、国鉄根岸線、第二、第三京浜国道の開設が行われた。人口も急増し同三十七年には百五十万人、四十三年には二百万人、五十三年には大阪市を抜いて政令指定都市中で第一位となった。人口の急増は郊外の宅地乱開発や農地、緑地の激減、学校、道路、上下水道などの都市施設や行政サービスの遅延などの深刻な問題をもたらした。一方工場排水や廃棄物、光化学スモッグや騒音などの都市公害による環境破壊、交通事故の激増が進んでいる。 | 敗戦後は横浜は米軍の基地となり、港湾施設の9割、中心部の主要な建物、施設を中心に全市街地の約三割に及ぶ地区が接収された。昭和二十七年に相当な地区が返還されたが、現在も市域に米軍の基地が残る。同二十五年の朝鮮戦争を機に、軍需品の特需によって京浜工業地帯は活気を取り戻した。昭和三十五年以降の高度経済成長期には京浜工業地帯の再整備と産業基盤の整備が重点的に進められ、山下埠頭、本牧埠頭の建設。大黒町や根岸湾の埋め立て、戸塚区、港北区などの内陸工業地帯の造成、工業用水道の敷設、国鉄根岸線、第二、第三京浜国道の開設が行われた。人口も急増し同三十七年には百五十万人、四十三年には二百万人、五十三年には大阪市を抜いて政令指定都市中で第一位となった。人口の急増は郊外の宅地乱開発や農地、緑地の激減、学校、道路、上下水道などの都市施設や行政サービスの遅延などの深刻な問題をもたらした。一方工場排水や廃棄物、光化学スモッグや騒音などの都市公害による環境破壊、交通事故の激増が進んでいる。 | ||
- | 参考文献:『神奈川県の地名』平凡社 下中邦彦(1984年) | + | |
+ | == 参考文献 == | ||
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+ | 『神奈川県の地名』平凡社 下中邦彦(1984年) |
最新版
目次 |
面積
面積429.89平方キロメートル
場所
横浜市は県東部に位置し、東は東京湾に面して房総半島を望み、西は東京都町田市、大和市、藤沢市、南は鎌倉市、逗子市、横須賀市、北は川崎市に隣接する。市域は多摩丘陵が東京湾に落ち込む東端にあたり、洪積台地の谷間を鶴見川、帷子川、大岡川、柏尾川などの比較的緩やかな河川が流れていて沖積平野を作り、その上に街並みが形成されている。海岸線はほとんど埋められていて石油化学コンビナートを中心として臨海工業地帯となり、また三方を小丘陵に囲まれていて十分な水深を持つ横浜港は、各種の埠頭、桟橋、水堤、倉庫などの設備を具備する内外の海上交通の拠点である。
第二次世界大戦後繁栄と課題
敗戦後は横浜は米軍の基地となり、港湾施設の9割、中心部の主要な建物、施設を中心に全市街地の約三割に及ぶ地区が接収された。昭和二十七年に相当な地区が返還されたが、現在も市域に米軍の基地が残る。同二十五年の朝鮮戦争を機に、軍需品の特需によって京浜工業地帯は活気を取り戻した。昭和三十五年以降の高度経済成長期には京浜工業地帯の再整備と産業基盤の整備が重点的に進められ、山下埠頭、本牧埠頭の建設。大黒町や根岸湾の埋め立て、戸塚区、港北区などの内陸工業地帯の造成、工業用水道の敷設、国鉄根岸線、第二、第三京浜国道の開設が行われた。人口も急増し同三十七年には百五十万人、四十三年には二百万人、五十三年には大阪市を抜いて政令指定都市中で第一位となった。人口の急増は郊外の宅地乱開発や農地、緑地の激減、学校、道路、上下水道などの都市施設や行政サービスの遅延などの深刻な問題をもたらした。一方工場排水や廃棄物、光化学スモッグや騒音などの都市公害による環境破壊、交通事故の激増が進んでいる。
参考文献
『神奈川県の地名』平凡社 下中邦彦(1984年)