オイルショック8

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-石油ショック、オイル=ショックともいう。1973年秋、第4次中東戦争の勃発に伴うアラブ産油国(OAPEC)の石油戦略により、石油価格が高騰し、世界経済に大きな衝撃を与えたこと。オイル=ショックは安価なアラブ原油に依存していた西側先進工業国の燃料不足、原料不足をもたらし、生産が低下して急激な物価上昇となった。この石油禁輸は1974年春には完全に撤廃され、石油供給に関する危機も急速に薄らいだ。それまで安価な中東の原油に依存していたアメリカ合衆国を初めとする先進工業国諸国は大きな打撃を受けた。また1971年のドルショックによって、アメリカ合衆国の経済力を背景としたブレトン=ウッズ体制が維持できなくなっていたこともあり、アメリカ合衆国の国際秩序は大きく転換することとなった。それは、1973年1月にイギリスなどがヨーロッパ共同体に参加して「拡大EC」となっていたが、さらに1975年に第1回の先進国首脳会議(サミット)が開催されたことにあらわれており、米ソ二大国を軸とした冷戦構造が転換するきっかけとなったと言うことができる。また日本は中東の石油にエネルギー源を依存する日本経済にも大きな打撃となり、これを契機として高度経済成長を終わらせ、低成長期にはいることとなった。+石油ショック、オイル=ショックともいう。
-影響として、トイレットペーパー騒動がある。 国内ではマスコミも連日、石油資源の不足の危機を報道したので、11月には消費者がスーパーに押しかけてトイレットペーパーを買いだめするなどの大騒ぎとなった。実際には品不足ではなかったのだが、マスコミと口コミによる情報に多くの人が踊らされることになった。+ 
 +==原因==
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 +1973年秋、第4次中東戦争の勃発に伴うアラブ産油国(OAPEC)の石油戦略により、石油価格が高騰し、世界経済に大きな衝撃を与えたこと。オイル=ショックは安価なアラブ原油に依存していた西側先進工業国の燃料不足、原料不足をもたらし、生産が低下して急激な物価上昇となった。この石油禁輸は1974年春には完全に撤廃され、石油供給に関する危機も急速に薄らいだ。
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 +==石油危機の発動==
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 +まず10月16日、石油輸出国機構(OPEC)の中東6カ国は原油の公示価格をバレル当たり約3ドルから5ドル強へ、一挙に70%も引き上げた。さらにその翌日、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)はアメリカとオランダなど親イスラエル諸国に対する石油輸出の禁止を宣言し、世界を震撼させた。この石油戦略を主導したのはサウジアラビアのファイサル国王とヤマニ石油相であった。サウジアラビアは当時、親米的であったが、第3次中東戦争(1967年)以来のイスラエルのシナイ半島・ゴラン高原・ヨルダン川左岸などの占領が続いていることに対するアラブ側の不満が高まっていることを無視できず、アラブ諸国の唯一の優位な力である産油国であることを生かし、イスラエルとアメリカに圧力をかけて、有利な休戦条件に持ち込もうとしたのであった。10月23日に休戦協定が成立したが、イスラエル軍の占領地からの撤退は実現せず、その後も石油戦略は継続され、12月22日にはOPECの中東湾岸6カ国は、74年1月1日から原油の公示価格を130%引き上げ、バレル当たり11ドル65セントとすることを決めた。
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 +==アラブの変質==
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 +アラブ諸国にとっては、石油戦略という資源ナショナリズムを全面に打ち出してイスラエルと対決する構図は、社会主義路線による統一を目指すというナセル以来のアラブの戦略が終わりを告げたことを意味しており、サダト大統領のエジプトに見られるような資本主義化が顕著になっていく。その亀裂から、台頭したのがイスラーム原理主義の勢力であった。
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 +==世界への影響==
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 +それまで安価な中東の原油に依存していたアメリカ合衆国を初めとする先進工業国諸国は大きな打撃を受けた。また1971年のドルショックによって、アメリカ合衆国の経済力を背景としたブレトン=ウッズ体制が維持できなくなっていたこともあり、アメリカ合衆国の国際秩序は大きく転換することとなった。それは、1973年1月にイギリスなどがヨーロッパ共同体に参加して「拡大EC」となっていたが、さらに1975年に第1回の先進国首脳会議(サミット)が開催されたことにあらわれており、米ソ二大国を軸とした冷戦構造が転換するきっかけとなったと言うことができる。
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 +==日本の影響==
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 +また中東の石油にエネルギー源を依存する日本経済にも大きな打撃となり、これを契機として高度経済成長を終わらせ、低成長期にはいることとなった。
 +トイレットペーパー騒動がある。 国内ではマスコミも連日、石油資源の不足の危機を報道したので、11月には消費者がスーパーに押しかけてトイレットペーパーを買いだめするなどの大騒ぎとなった。実際には品不足ではなかったのだが、マスコミと口コミによる情報に多くの人が踊らされることになった。
(参考文献) (参考文献)

2019年1月15日 (火) 16:15の版

石油ショック、オイル=ショックともいう。

目次

原因

1973年秋、第4次中東戦争の勃発に伴うアラブ産油国(OAPEC)の石油戦略により、石油価格が高騰し、世界経済に大きな衝撃を与えたこと。オイル=ショックは安価なアラブ原油に依存していた西側先進工業国の燃料不足、原料不足をもたらし、生産が低下して急激な物価上昇となった。この石油禁輸は1974年春には完全に撤廃され、石油供給に関する危機も急速に薄らいだ。

石油危機の発動

まず10月16日、石油輸出国機構(OPEC)の中東6カ国は原油の公示価格をバレル当たり約3ドルから5ドル強へ、一挙に70%も引き上げた。さらにその翌日、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)はアメリカとオランダなど親イスラエル諸国に対する石油輸出の禁止を宣言し、世界を震撼させた。この石油戦略を主導したのはサウジアラビアのファイサル国王とヤマニ石油相であった。サウジアラビアは当時、親米的であったが、第3次中東戦争(1967年)以来のイスラエルのシナイ半島・ゴラン高原・ヨルダン川左岸などの占領が続いていることに対するアラブ側の不満が高まっていることを無視できず、アラブ諸国の唯一の優位な力である産油国であることを生かし、イスラエルとアメリカに圧力をかけて、有利な休戦条件に持ち込もうとしたのであった。10月23日に休戦協定が成立したが、イスラエル軍の占領地からの撤退は実現せず、その後も石油戦略は継続され、12月22日にはOPECの中東湾岸6カ国は、74年1月1日から原油の公示価格を130%引き上げ、バレル当たり11ドル65セントとすることを決めた。

アラブの変質

アラブ諸国にとっては、石油戦略という資源ナショナリズムを全面に打ち出してイスラエルと対決する構図は、社会主義路線による統一を目指すというナセル以来のアラブの戦略が終わりを告げたことを意味しており、サダト大統領のエジプトに見られるような資本主義化が顕著になっていく。その亀裂から、台頭したのがイスラーム原理主義の勢力であった。

世界への影響

それまで安価な中東の原油に依存していたアメリカ合衆国を初めとする先進工業国諸国は大きな打撃を受けた。また1971年のドルショックによって、アメリカ合衆国の経済力を背景としたブレトン=ウッズ体制が維持できなくなっていたこともあり、アメリカ合衆国の国際秩序は大きく転換することとなった。それは、1973年1月にイギリスなどがヨーロッパ共同体に参加して「拡大EC」となっていたが、さらに1975年に第1回の先進国首脳会議(サミット)が開催されたことにあらわれており、米ソ二大国を軸とした冷戦構造が転換するきっかけとなったと言うことができる。


日本の影響

また中東の石油にエネルギー源を依存する日本経済にも大きな打撃となり、これを契機として高度経済成長を終わらせ、低成長期にはいることとなった。 トイレットペーパー騒動がある。 国内ではマスコミも連日、石油資源の不足の危機を報道したので、11月には消費者がスーパーに押しかけてトイレットペーパーを買いだめするなどの大騒ぎとなった。実際には品不足ではなかったのだが、マスコミと口コミによる情報に多くの人が踊らされることになった。 (参考文献)

[1] 世界史の窓

編者:b.m


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