バルカン半島とは
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1.バルカン半島とは | 1.バルカン半島とは | ||
- | バルカン半島はヨーロッパの東、東をアドリア海・イオニア海、西を黒海、南を地中海・エーゲ海に囲まれた広範な地域である。一般にルーマニア・ブルガリア・旧ユーゴスラヴィア・アルバニア・ギリシア・トルコのヨーロッパ部分からなる。(ドナウ川中流のオーストリア・ハンガリー・チェコ・スロヴァキアはバルカンには入らないとされる。) | + | バルカン半島はヨーロッパの東、東をアドリア海・イオニア海、西を黒海、南を地中海・エーゲ海に囲まれた広範な地域である。 |
+ | 一般にルーマニア・ブルガリア・旧ユーゴスラヴィア・アルバニア・ギリシア・トルコのヨーロッパ部分からなる。 | ||
+ | (ドナウ川中流のオーストリア・ハンガリー・チェコ・スロヴァキアはバルカンには入らないとされる。) | ||
2.ローマ帝国の支配 | 2.ローマ帝国の支配 | ||
- | バルカン半島は古代においてはローマ帝国の支配がおよび、その属州となった。東西分裂後は大部分は東ローマ帝国の領域となり、コンスタンティノープルがその都となって次第にギリシア化したため、東ローマ帝国はビザンツ帝国と言われるようになった。4世紀以降のゲルマン人の大移動の時期には、いくつかのゲルマン部族がバルカン半島を通過したが、定着したものはなく、ビザンツ帝国の支配が継続されたのである。 | + | バルカン半島は古代においてはローマ帝国の支配がおよび、その属州となった。 |
+ | 東西分裂後は大部分は東ローマ帝国の領域となり、コンスタンティノープルがその都となって次第にギリシア化したため、東ローマ帝国はビザンツ帝国と言われるようになった。 | ||
+ | 4世紀以降のゲルマン人の大移動の時期には、いくつかのゲルマン部族がバルカン半島を通過したが、定着したものはなく、ビザンツ帝国の支配が継続されたのである。 | ||
3.ヨーロッパの火薬庫 | 3.ヨーロッパの火薬庫 | ||
- | 1908年、オスマン帝国で革命が起こって混乱すると、オーストリアはボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合し、ブルガリアは独立を宣言した。こうして、オスマン領はオーストリアのパン=ゲルマン主義とロシアのパン=スラヴ主義による争奪戦によって浸食され、両陣営の対立によってバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と言われるようになる。このバルカン問題は、セルビア・ブルガリア・モンテネグロ・ギリシアがロシアの後押しでバルカン同盟を結成してオスマン帝国と戦った第一次バルカン戦争としてついに火を噴き、さらにブルガリアと他の三国・オスマン帝国とが戦った第二次バルカン戦争が続いた。オスマン帝国はこれらの戦争の結果、1913年のロンドン条約でイスタンブル付近を除くバルカン半島の領土を失った。 | + | 1908年、オスマン帝国で革命が起こって混乱すると、オーストリアはボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合し、ブルガリアは独立を宣言した。 |
+ | こうして、オスマン領はオーストリアのパン=ゲルマン主義とロシアのパン=スラヴ主義による争奪戦によって浸食され、両陣営の対立によってバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と言われるようになる。 | ||
+ | このバルカン問題は、セルビア・ブルガリア・モンテネグロ・ギリシアがロシアの後押しでバルカン同盟を結成してオスマン帝国と戦った第一次バルカン戦争としてついに火を噴き、さらにブルガリアと他の三国・オスマン帝国とが戦った第二次バルカン戦争が続いた。 | ||
+ | オスマン帝国はこれらの戦争の結果、1913年のロンドン条約でイスタンブル付近を除くバルカン半島の領土を失った。 | ||
参考文献 | 参考文献 |
2019年1月15日 (火) 17:13の版
1.バルカン半島とは
バルカン半島はヨーロッパの東、東をアドリア海・イオニア海、西を黒海、南を地中海・エーゲ海に囲まれた広範な地域である。
一般にルーマニア・ブルガリア・旧ユーゴスラヴィア・アルバニア・ギリシア・トルコのヨーロッパ部分からなる。 (ドナウ川中流のオーストリア・ハンガリー・チェコ・スロヴァキアはバルカンには入らないとされる。)
2.ローマ帝国の支配
バルカン半島は古代においてはローマ帝国の支配がおよび、その属州となった。
東西分裂後は大部分は東ローマ帝国の領域となり、コンスタンティノープルがその都となって次第にギリシア化したため、東ローマ帝国はビザンツ帝国と言われるようになった。 4世紀以降のゲルマン人の大移動の時期には、いくつかのゲルマン部族がバルカン半島を通過したが、定着したものはなく、ビザンツ帝国の支配が継続されたのである。
3.ヨーロッパの火薬庫
1908年、オスマン帝国で革命が起こって混乱すると、オーストリアはボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合し、ブルガリアは独立を宣言した。
こうして、オスマン領はオーストリアのパン=ゲルマン主義とロシアのパン=スラヴ主義による争奪戦によって浸食され、両陣営の対立によってバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と言われるようになる。 このバルカン問題は、セルビア・ブルガリア・モンテネグロ・ギリシアがロシアの後押しでバルカン同盟を結成してオスマン帝国と戦った第一次バルカン戦争としてついに火を噴き、さらにブルガリアと他の三国・オスマン帝国とが戦った第二次バルカン戦争が続いた。 オスマン帝国はこれらの戦争の結果、1913年のロンドン条約でイスタンブル付近を除くバルカン半島の領土を失った。
参考文献 柴 宣弘 (2006) 『バルカンの歴史』河出書房新社
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