新渡戸稲造3

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*1926年 国際連盟事務次長退任 *1926年 国際連盟事務次長退任
*1933年 死去 *1933年 死去
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 +== 参考資料 ==
 +*新渡戸稲造 「新渡戸稲造 幼き日の思い出/人生読本」 日本図書センター 1997
 +*新渡戸稲造の世界 http://www.nitobe.com/
 +*ウェブもりおか http://www.city.morioka.iwate.jp/index.html

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新渡戸稲造(1862-1933)拓殖大学名誉教授であり旧五千円札の肖像画でも知られている。国際連盟事務次長も務めた。


目次

生涯

幼い頃から西洋の文化に触れ、学生時代は英語や英文学を修業するなど多大な影響を受けて育った。そのためキリスト教への興味・関心も高く、明治天皇御巡幸の際に賜ったお金を聖書に使ったほどだった。また明治天皇が父祖の開拓の功績を称えられたことに感激し、開拓事業にも興味を持つ。クラーク博士の影響を大きく受けた札幌農学校に入学した後には、キリスト教へ入信することになる。農学校卒業後は開拓使御用掛、農商務省御用掛となり開拓事業に携わるも、学問をするため東京大学へ進学。入学の際の面接で「太平洋の橋になりたい」と話す。翌年には東京大学を退校し、アメリカやドイツへ留学、周囲の反対にも変わらぬ思いでアメリカ人女性と国際結婚。30代半ばの病気療養・静養中にアメリカで名著『武士道』を出版する。その後台湾総督府民生部殖産局長心得、国際連盟事務次長を務めるなどした。1933年カナダで死去。


武士道

学生時代に外国人の先生から「日本の宗教や道徳教育はどうするのか」と問われたことが頭に残っていた新渡戸が療養中に書き上げた名著。武士の家に生まれた幼い頃の経験から、日本の道徳は武士道に通じているとした。外国に向けて執筆されたものであるため、新渡戸にこれを日本で出版する気はなかったが、帰ってみたら日本でも出版されてしまっていた。


略歴

  • 1862年 岩手県盛岡市に生まれる。
  • 1873年 東京外国語学校(大学予備門)入学。
  • 1875年 東京英語学校入学。
  • 1877年 札幌農学校の第2期生として入学。
  • 1882年 農商務省御用掛・札幌農学校予科教授となる。
  • 1884年 アメリカへ留学
  • 1887年 ドイツへ留学
  • 1891年 メリー・エルキントンと結婚
  • 1897年~ 静養
  • 1900年 武士道出版
  • 1901年 台湾総督府民生部殖産局長心得就任
  • 1918年 東京女子大学学長就任
  • 1919年 国際連盟事務次長就任
  • 1926年 国際連盟事務次長退任
  • 1933年 死去


参考資料


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