魔女裁判

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森島恒雄著(2001)魔女狩り 岩波新書 森島恒雄著(2001)魔女狩り 岩波新書
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魔女裁判

 魔女裁判は、13~18世紀のヨーロッパで、魔女として告発された者に対して行なわれた宗教裁判。初めは病気が流行したり、作物の収穫がわるかったりすると行なわれたが、のちには無実のものや異端とみなされたものも魔女の名のもとに裁判にかけられ、火あぶりにされた。  12世紀に勃発した大規模な異端運動の影響により、13世紀のローマ・カトリック教会は、それまで異端者に対し寛容で合理的であったが、異端者の処罰は火刑が通則となり、審問による拷問も法皇によって許可されるようになる。これ以前、魔女が裁判にかけられ処罰される場合、宗教的な異端の罪を犯したからではなく、刑事犯的な行為としてだったが、11、12世紀ごろからは、裁かれる異端者の罪状の中に魔女的な行為が挙げられ始めた。1318年、法皇ヨハネスの魔女狩り解禁令と強化令によって、異端審問官の魔女狩りは増大した。裁判はまず容疑者の逮捕から始まる。容疑者を逮捕するのには、教会法で認められている3つの場合がある。(1)誰かが、ある者の異端の罪を裁判官に告発し、かつ、その罪を立証することを申し出た場合。(2)誰かが、ある者の異端の罪を告発はしたが、その罪を立証したり、その事件に関係したりすることを望まない場合。(3)告発も密告もないけれども、ある者の異端について世間の噂がある場合。逮捕された容疑者は、そのまま牢獄に入れられた。容疑者の逮捕後、投獄と同時に管財役人と公証人は容疑者の家を訪れ、その動産、不動産、債権、債務を詳細に調べあげて記録にとどめた。これは、財産没収のための用意である。証人は被告に不利な証言を行う場合に限って認められた。被告は弁護人を依頼することができたが、被告に有利な弁護はされなっかた。被告を有罪と判定するもっとも有力な根拠は、被告の自白であった。裁判官は被告に対し、答えようのない尋問をし、答えられなければ拷問が行われ、自白が強要された。拷問によっても自白しないときには、自白しないという事実が悪魔の保護下にある証拠だとして断罪された。犠牲者の正確な数はわからないが、一説には10万を超えるという。


魔女

 悪魔に仕えて悪霊を駆使し、占卜や呪法の超自然的能力をもって隣人の身に事故を招いたり、家畜を病気にしたりするなど、さまざまの害悪を及ぼすと信じられた者を魔女という。ときには空中飛翔や変身の能力をもつともいわれた。ドイツ、ハルツ山中のブロッケンには聖ワルプルギス祭の未明、魔女が参集して宴会を催すという伝説がある。魔女というが、女性に限らない。男で魔女と目された者も多い。


ジャンヌ・ダルクの異端審問

 15世紀後半の英仏間の百年戦争の過程でフランスに勝利をもたらした20歳の少女ジャンヌは北フランスのコンピエーニュ郊外で、ブルゴーニュ方の軍勢に捕らえられた。身代金はイギリス王が支払い、ジャンヌはノルマンディーのルーアン城に留置された。パリ大学神学部は、ジャンヌに異端の嫌疑をかけ、フランス王国宗教裁判官による宗教裁判を要求し、イギリス王家側もこれに同意し、法廷に身柄を引き渡した。イギリス側の一方的路線で進められた異端審問であった。裁判は、教会の聖職者の仲介を経ず、直接神的存在に接触したと主張することを異端疑惑の根拠にし、ジャンヌの異端は確定した。処刑の日(1431年5月30日)、ルーアンの広場に集まった群衆に示されたジャンヌ・ダルクの異端の内容は、「妖術者」、「迷信者」、「悪魔の祈祷師」などであった。もう1世紀おくれていればもっとはっきりとした形の魔女裁判となっていたであろう。これは、政治的な必要から異端者に魔女的色彩を意識的に施して行われた過渡的もぐり魔女裁判であった。


セイラムの魔女裁判

 1692年アメリカ、ニューイングランドのセイラムで発生した。事の起こりは、その年の春,若い女性数名が引き付けの発作を起こし、サミュエル・パリス牧師家の西インド諸島出身の奴隷によって魔術をかけられたと主張したことである。それに続いて多くの人が魔女として告発され、数カ月の間にほぼ150名が投獄され男性5名を含む計19名が絞首刑に、男性1人が圧死させられた。さらに犬2頭が処刑された。証人のエリザベス・パリスは9歳、アビゲィル・ウィリアムズは11歳、アンヌ・パトナムは12歳であり、6歳から9歳までの子どもの証言すら取り上げられた。マサチューセッツ湾岸植民地では、フランス人やインディアンの襲撃を恐れ、人心が不安に陥っていたことにも遠因がある。そのために人々は少女たちの告発をそのまま受け入れ、疑いを差し挟めば逆に魔女と判断されるという悪循環の中で、またたくまにボストンまで広がる勢いを見せた。しかし、9月になって,事態を憂慮した識者たちがウィリアム・フィップス総督に対し嘆願書を提出し、法廷が閉鎖されると狂気の事態は急激に衰退した。


参考文献

"セイラムの魔女裁判", デジタル版 集英社世界文学大事典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2020‐01‐29)

"ジャンヌ・ダルク", 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2020-01-29)

"魔女狩り", 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2020-01-29)

"まじょ‐さいばん[マヂョ‥]【魔女裁判】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2020-01-29)

森島恒雄著(2001)魔女狩り 岩波新書


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