ナイチンゲール2
出典: Jinkawiki
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フローレンス=ナイチンゲール(1820〜1910年)
●心の優しい女の子として育つ
フローレンスは、イギリスのシェフィールドに本社をもつ大銀行家の娘として生まれる。幼いころから貧しい人や病人を見ると、助けずにはいられない優しい心の持ち主と言われていた。 ある日のこと、フローレンスが馬で野道を走っているとき、汗だくになって羊を追う老人と出会う。わけをたずねると、番犬が足を骨折して死にかけているので、自分が番犬の代わりに羊を集めているのだという。フローレンスは、早速家へもどると、薬を手にして老人の家を訪れ、苦しそうに横たわった犬の手当てを始めた。それからというもの、毎日のように犬を看病し、とうとう元のように元気な姿にもどしたといわれているのである。
●着護婦になろうと決意する
1849年、フローレンスが地中海地方へ旅行に 品かけたとき、病院で献身的に病人を看護する 安性たちの姿に心をうたれ、自分も看護婦にな ろうと決意をする。しかし、両親の猛反対を受けてしまうのである。当時の看護婦は、身分の低い人のする仕事とされていたからだ。それを押し切って、看護学校に入学したフローレンスは、翌年看護婦の資格を得ると、ロンドンやパリの病院で実際に看護婦として働いた。 1853年、東ヨーロッパでイギリスも参加してクリミア戦争が始まる。そのころ、フローレンスはロンドンの病院で看護婦長をしていましたが、戦場で傷ついた兵士たちが次々に野戦病院へ運びこまれ、看護婦も薬も不足して苦しんでいるという知らせを聞き、じっとしてられなくなった。
●傷病兵を敵味方なく看護する
やがて、フローレンスは38人の看護婦を引き連れてクリミアに出発しるそこで目にしたものは、血とうみにまみれ、うめき声をあげる傷病兵たちの姿であった。早速看護婦たちに指示してわらぶとんを作ると、敵味方の区別なく、傷病兵の体を洗って手当てし、汚れた病院内を掃除するなど、懸命に働いた。夜、みんなが眠った後もらフローレンスは1人で病院内を見回って看護に努めた。こうして献身的な介護を続けたフローレンスは、兵士たちから深く感謝され、「クリミアの天使」と呼ばれ、慕われるのであった。戦争中に看護した兵士の数は、1万人以上に達したと言われている。 クリミア戦争は、結局イギリス側の勝利に終わった。戦場から帰還したフローレンスは、その後ロンドンの病院に看護学校を創立し、近代的看護法を本に表すなど、看護婦の地位を高めるために活動して、また人のために尽くし続けたのであった。
●クリミア戦争
1853年〜1856年に地中海東部への南下を狙うロシアとそれに反発するトルコ・イギリス・フランスとの間で行われた戦争。ロシアが敗れて南下政策は阻止された。
●国際赤十字が創設したナイチンゲール賞
クリミア戦争で敵味方関係なく傷病兵を看護したナイチンゲールらの働きは、その後、スイスのアンリ=デュナンに引き継がれ、1863年、国際赤十字の結成となって実を結んだ。各国の赤十字では、これまで戦争での被害者の救済・災害での救護・地域社会の医療など、様々な活動を行ってきた。また、1920年、国際赤十字はナイチンゲールを記念してナイチンゲール賞創設。以来、世界中で看護活動の功績にあった人を表彰している。
参考文献 目でみる 世界人物百科 2 芸術・文学人物事典 日本図書センター
TIT0804