慰安婦6
出典: Jinkawiki
2020年1月30日 (木) 16:34の版 Daijiten2014 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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慰安婦には日本名がつけられ、着物や髪型も日本風にさせられていた。慰安所には、昼間は下士官・兵が、夜は将校がきて、体調が悪くても生理であっても、拒否することはできなかった。1日に10〜20人、多い時にはそれ以上の相手を強いられることもあり、病気になったり、性病に感染した慰安婦もたくさんいた。慰安所に入れられる女性は、最初に必ず性病検査を受けさせられていたので、性病は軍人からうつされたものであった。 | 慰安婦には日本名がつけられ、着物や髪型も日本風にさせられていた。慰安所には、昼間は下士官・兵が、夜は将校がきて、体調が悪くても生理であっても、拒否することはできなかった。1日に10〜20人、多い時にはそれ以上の相手を強いられることもあり、病気になったり、性病に感染した慰安婦もたくさんいた。慰安所に入れられる女性は、最初に必ず性病検査を受けさせられていたので、性病は軍人からうつされたものであった。 | ||
あまりに苦しくて自殺した女性たちも多くおり、慰安婦への監視が厳しかったのは自殺防止のためでもあった。慰安婦たちは性的慰安にとどまらず、明るく振る舞うことも強要されていた。そんな様子を「楽しそうだった」という兵士がいる一方、彼女たちの境遇に気づいていた兵士もいた。 | あまりに苦しくて自殺した女性たちも多くおり、慰安婦への監視が厳しかったのは自殺防止のためでもあった。慰安婦たちは性的慰安にとどまらず、明るく振る舞うことも強要されていた。そんな様子を「楽しそうだった」という兵士がいる一方、彼女たちの境遇に気づいていた兵士もいた。 | ||
+ | =='''戦後の慰安婦'''== | ||
+ | 日本の敗戦によって戦争は終わったが、多くの慰安婦が連行地に置き去りにされた。中には自力で祖国に帰った女性もいるが、言葉も地理も習慣もわからない土地に投げ出され、生きるために現地の男性と結婚した女性もたくさんいる。韓国には1990年代後半から、半世紀の時を経て帰国する女性たちが出てきたが、今も人知れず現地で生きている女性や、故郷に帰ることなく亡くなった女性もいる。激戦地では戦闘に巻き込まれて死亡したり、日本兵の「自決」の巻き添えになって亡くなった女性もいる。南方の慰安所に連行された朝鮮や台湾の女性たちの中には、日本の敗戦時に連合軍に捕えられ、捕虜収容所に入れられた人もいた。彼女たちは尋問を受けた後に祖国に送り返されましたが、なかには「慰安婦」だったことを恥じて帰国船に乗ることを拒んだ女性もいた。 | ||
+ | 慰安婦にされた女性たちは心も体もボロボロになり戦後、不妊症になり、内臓疾患や女性特有の子宮の病気、慰安所でうつされた性病の後遺症などで苦しんだ女性も多くいた。また、当時を思い出すたびに心が激しく乱れ、頭痛や動悸、悪夢に悩まされるなど、強いPTSD(心的外傷後ストレス症候群)に苦しみ、精神の錯乱や家庭内暴力に陥った女性もいる。 | ||
+ | =='''参考文献'''== | ||
+ | https://wam-peace.org/ifaq/ifaq-06 |
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目次 |
慰安婦とは
「慰安婦」とは、慰安所と呼ばれた施設などで、日本軍将兵との性行為を強制された女性たちのことをいう。一般的に慰安婦というと日本軍の慰安婦とされているが、第二次世界大戦後の韓国でも慰安婦という呼称が使用されていた。ドイツなどでも同義の女性が存在していた。
目的
慰安所を設置した主体は日本軍である。その第一の理由は、日本兵が性病に感染して兵力が低下するのを防ぐことである。1904~5年の日露戦争の時にもすでに、日本軍将兵に性病が広がり問題となっており、日本軍は性病を予防するため、戦地・駐屯地の貸座敷などで軍医や憲兵が介入して性病検診を徹底するようになった。戦域が大きく広がった日中戦争、アジア・太平洋戦争期には、軍が制度化し管理した慰安所が作られた。慰安所では軍医による「慰安婦」の性病検診を定期的に行い、コンドームや性病感染防止のぬり薬などの使用を徹底するために各地の派遣軍に軍需物資として輸送していた。 第二の理由は、占領地での日本兵による強かん事件への対策である。1937年、日本軍は上海での激しい戦闘の後、南京に向かう侵攻の過程で、また南京大虐殺の前後に、虐殺・略奪・放火・強かんを繰り返し、さらに、中国北部でも強かんなどが多発したため、日本軍は中国の住民の反日感情が激しくなったことにあわてて、強かんをなくして治安を回復することを目的として慰安所の設置を指示。こうして慰安所は各地に作られていった。 第三の理由は、休暇制度もなく長期間、戦地に釘付けにされ、すさんでいく日本兵の戦意を回復するためである。「どうせ死ぬんだ」という自暴自棄の思いは、占領地での地元女性への強かんにもつながっていった。そうした精神状態から上官への反抗などが起こり、軍の規律が乱れることを心配した軍は、ストレスのはけ口として慰安所を考えた。 第四の理由は、日本軍将兵が民間の性売買施設へ行くと、将兵に接した性売買女性を通して軍の情報がもれるのを防ぐためである。そのため、軍には自らが管理・監督して目が行き届く軍管理の慰安所が必要であった。「慰安婦」が監禁されたり行動が制限されていたのは、「慰安婦」が逃げ出さないようにするためだけでなく、情報がもれないようにするためでもあった。
誰が慰安婦を集めたのか
日本国内からは日本人や在日朝鮮人の女性が集められた。当時、日本は「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」を批准していたため、国内からの徴集は21歳以上の性売買に従事する女性でなければならなかった。しかし、実際には21歳未満の女性や性売買に従事していない女性を連れていったケースもあり、誘拐や詐欺、人身売買が横行していたことが証言や文書からも明らかになっている。そうした事件に対して、日本軍は業者への便宜を図るよう日本の各県警察に依頼をしつつ、軍の関与を隠ぺいするように指示した警察資料も残されている。戦場となり、たくさんの日本軍が駐屯した沖縄の場合、軍は現地に慰安所を作るよう県当局に申し入れた。泉守紀知事や具志堅宗精那覇警察署長はいったんは拒否したが、軍令に逆らうことはできなかった。沖縄では最大の遊廓であった辻遊廓から500名が駆り出されたといわれている。中には慰安所にいくのを拒否した女性もいるが、軍は那覇警察に「廃業まかりならぬ」と厳命した。
慰安所での生活
慰安所での生活は軍や経営者によって管理されていた。監視の目が厳しく、慰安婦の外出は取り締まられ、たとえ許されても裵奉奇さんのように決められた区域内での散歩程度であった。逃げ出しても自分がどこに連れてこられたのか、また地理も言葉もわからない土地で行く当てなど無く、逃げても生命の保証も無い。中には逃げ出したものの追っ手に捕まり、見せしめのためにひどい体罰を受けた慰安婦もいた。 慰安婦には日本名がつけられ、着物や髪型も日本風にさせられていた。慰安所には、昼間は下士官・兵が、夜は将校がきて、体調が悪くても生理であっても、拒否することはできなかった。1日に10〜20人、多い時にはそれ以上の相手を強いられることもあり、病気になったり、性病に感染した慰安婦もたくさんいた。慰安所に入れられる女性は、最初に必ず性病検査を受けさせられていたので、性病は軍人からうつされたものであった。 あまりに苦しくて自殺した女性たちも多くおり、慰安婦への監視が厳しかったのは自殺防止のためでもあった。慰安婦たちは性的慰安にとどまらず、明るく振る舞うことも強要されていた。そんな様子を「楽しそうだった」という兵士がいる一方、彼女たちの境遇に気づいていた兵士もいた。
戦後の慰安婦
日本の敗戦によって戦争は終わったが、多くの慰安婦が連行地に置き去りにされた。中には自力で祖国に帰った女性もいるが、言葉も地理も習慣もわからない土地に投げ出され、生きるために現地の男性と結婚した女性もたくさんいる。韓国には1990年代後半から、半世紀の時を経て帰国する女性たちが出てきたが、今も人知れず現地で生きている女性や、故郷に帰ることなく亡くなった女性もいる。激戦地では戦闘に巻き込まれて死亡したり、日本兵の「自決」の巻き添えになって亡くなった女性もいる。南方の慰安所に連行された朝鮮や台湾の女性たちの中には、日本の敗戦時に連合軍に捕えられ、捕虜収容所に入れられた人もいた。彼女たちは尋問を受けた後に祖国に送り返されましたが、なかには「慰安婦」だったことを恥じて帰国船に乗ることを拒んだ女性もいた。 慰安婦にされた女性たちは心も体もボロボロになり戦後、不妊症になり、内臓疾患や女性特有の子宮の病気、慰安所でうつされた性病の後遺症などで苦しんだ女性も多くいた。また、当時を思い出すたびに心が激しく乱れ、頭痛や動悸、悪夢に悩まされるなど、強いPTSD(心的外傷後ストレス症候群)に苦しみ、精神の錯乱や家庭内暴力に陥った女性もいる。