マザー・テレサ

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-[['''経歴''']]+== 経歴 ==
-1910年8月27日+'''1910年8月27日'''
 旧ユーゴスラビアのスコピエに生まれ、アグネス・ゴンジャと命名される。  旧ユーゴスラビアのスコピエに生まれ、アグネス・ゴンジャと命名される。
-1925年 +'''1925年'''
- イエズス会のヤンブレンコヴィッチ神父が作った聖母マリアの信心会がアグネスの生涯に多大な影響を与える。ユーゴスラビアからインドのベンガル地方に派遣されていたイエズス会司祭たちの生き方に心を動かされ、ベンガル宣教地での献身を決心する。ベンガルではアイルランドのロレット修道会が活動していたので、この会に入会しようと決める。 + アイルランドのロレット修道会に入会。
-1928年12月1日 +'''1928年12月1日'''
 ダージリンで修練を始めるためにインドに派遣される。  ダージリンで修練を始めるためにインドに派遣される。
-1929年5月23日 +'''1929年5月23日'''
 修道名としてテレサと改名。修練者としてダージリンで修練を始める(19歳)。  修道名としてテレサと改名。修練者としてダージリンで修練を始める(19歳)。
-1937年5月24日 +'''1937年5月24日'''
 聖マリア高等学校校長となる。同時に修道院外にある聖テレサ女学校でも教えることになり、スラムの貧しい人々をまのあたりにする。  聖マリア高等学校校長となる。同時に修道院外にある聖テレサ女学校でも教えることになり、スラムの貧しい人々をまのあたりにする。
-1946年8月16日 +'''1946年8月16日'''
 暴動のためコルカタの町は大混乱に陥る。テレサ、町に食糧を探しにでかける。  暴動のためコルカタの町は大混乱に陥る。テレサ、町に食糧を探しにでかける。
-1946年9月10日 +'''1946年9月10日'''
 「決意の日」。黙想会に出席のため、ダージリンに向かう汽車の中で、「貧しい人々とともにいるキリストに尽くしなさい」という神のうながしを感じ、コルカタのスラムで働く決意をする。  「決意の日」。黙想会に出席のため、ダージリンに向かう汽車の中で、「貧しい人々とともにいるキリストに尽くしなさい」という神のうながしを感じ、コルカタのスラムで働く決意をする。
-1948年7月末 +'''1948年7月末'''
 4月12日付で修道会を退会。(38歳)  4月12日付で修道会を退会。(38歳)
-1948年8月8日 +'''1948年8月8日'''
 3か月間、パトナのアメリカン医療宣教修道女会経営の「聖家族病院」で、看護の集中訓練を受ける。  3か月間、パトナのアメリカン医療宣教修道女会経営の「聖家族病院」で、看護の集中訓練を受ける。
-1948年12月21日 +'''1948年12月21日'''
 最初のスラム街学校開設の許可を得て子どもたちを集めて青空教室を始める。  最初のスラム街学校開設の許可を得て子どもたちを集めて青空教室を始める。
-1950年 +'''1950年'''
 国籍をユーゴスラビアからインドに移す。  国籍をユーゴスラビアからインドに移す。
-1950年10月7日 +'''1950年10月7日'''
 ミッショナリーズ・オブ・チャリティー「神の愛の宣教者会」を創立し、コルカタ大司教より認可を受ける。この時、メンバーは12人になっていた。この時から、シスター・テレサは、マザー・テレサと呼ばれるようになった。その後、会員が増え活動も増えた。インドを中心に世界55か国に211の修道院が開設され、会員は2000人を越えした。  ミッショナリーズ・オブ・チャリティー「神の愛の宣教者会」を創立し、コルカタ大司教より認可を受ける。この時、メンバーは12人になっていた。この時から、シスター・テレサは、マザー・テレサと呼ばれるようになった。その後、会員が増え活動も増えた。インドを中心に世界55か国に211の修道院が開設され、会員は2000人を越えした。
-1952年 +'''1952年'''
 「死を待つ人の家」開設。(42歳)  「死を待つ人の家」開設。(42歳)
-1955年 +'''1955年'''
 初めての「孤児の家」が開設される。(45歳)   初めての「孤児の家」が開設される。(45歳) 
-1959年 +'''1959年'''
 ハンセン病診療所開設。(49歳) ハンセン病診療所は「平和の村」と呼ばれている。  ハンセン病診療所開設。(49歳) ハンセン病診療所は「平和の村」と呼ばれている。
-1964年 +'''1964年'''
 ローマ教皇パウロ六世インド訪問の折、謁見。教皇帰国に際してインド滞在中乗っていた車をプレゼントされ、マザー・テレサに残す。彼女は、それを売り、貧しい人への奉仕にあてる。  ローマ教皇パウロ六世インド訪問の折、謁見。教皇帰国に際してインド滞在中乗っていた車をプレゼントされ、マザー・テレサに残す。彼女は、それを売り、貧しい人への奉仕にあてる。
-1965年2月1日 +'''1965年2月1日'''
-「神の愛の宣教者会」教皇認可を受ける。ベネズエラにセンター開設。 + 「神の愛の宣教者会」教皇認可を受ける。ベネズエラにセンター開設。
-1971年1月6日 +'''1971年1月6日'''
 パウロ六世教皇より、ヨハネ二十三世教皇平和賞受賞。  パウロ六世教皇より、ヨハネ二十三世教皇平和賞受賞。
-1972年 +'''1972年'''
 ジョン・F・ケネディ賞受賞。  ジョン・F・ケネディ賞受賞。
-1975年 +'''1975年'''
 アルベルト・シュバイツアー賞受賞。  アルベルト・シュバイツアー賞受賞。
-1976年11月 +'''1976年11月'''
 アジア宗教者平和会議に出席(シンガポール)。  アジア宗教者平和会議に出席(シンガポール)。
-1978年4月 +'''1978年4月'''
 東京に修道士のセンター開設。  東京に修道士のセンター開設。
-1979年12月10日 +'''1979年12月10日'''
 ノーベル平和賞受賞。ノルウェーのオスロで記念講演。「私はノーベル平和賞にふさわしい者ではありません。けれど世界中の貧しい人々に代わって、この名誉ある賞をいただきます。私のための受賞晩餐会はいりません。どうぞ、そのお金を貧しい人々のためにお使い下さい。」記念スピーチ賞金の19万ドルは、飢えに苦しむ人々の食料、人々から見放された孤独な人々のホームの建設資金に当てられた。  ノーベル平和賞受賞。ノルウェーのオスロで記念講演。「私はノーベル平和賞にふさわしい者ではありません。けれど世界中の貧しい人々に代わって、この名誉ある賞をいただきます。私のための受賞晩餐会はいりません。どうぞ、そのお金を貧しい人々のためにお使い下さい。」記念スピーチ賞金の19万ドルは、飢えに苦しむ人々の食料、人々から見放された孤独な人々のホームの建設資金に当てられた。
-1981年5月24日 +'''1981年5月24日'''
 東京に修道院を開設。  東京に修道院を開設。
-1983年11月 +'''1983年11月'''
 エリザベス女王より、優秀修道会賞を受賞。  エリザベス女王より、優秀修道会賞を受賞。
-1984年 +'''1984年'''
 「神の愛の宣教者会」(司祭の会)創立  「神の愛の宣教者会」(司祭の会)創立
-1990年9月 +'''1990年9月'''
 心臓病で入院。一時は再起を危ぶまれるが、回復し10月退院。ペースメーカーを埋め込む手術を受ける。  心臓病で入院。一時は再起を危ぶまれるが、回復し10月退院。ペースメーカーを埋め込む手術を受ける。
-1991年5月 +'''1991年5月'''
 バングラディッシュのサイクロン被災者の緊急援助に当たる。  バングラディッシュのサイクロン被災者の緊急援助に当たる。
-1991年12月26日 +'''1991年12月26日'''
 メキシコのティファナ訪問中、肺炎にかかり、一時危篤に陥る。アメリカ、カルフォルニア州ラホヤのスクリップス病院に入院。手術を受ける。  メキシコのティファナ訪問中、肺炎にかかり、一時危篤に陥る。アメリカ、カルフォルニア州ラホヤのスクリップス病院に入院。手術を受ける。
-1997年9月5日 +'''1997年9月5日'''
 永眠  永眠
-1997年9月13日 +'''1997年9月13日'''
 コルカタで国葬が行われる。マザーハウスに埋葬されている。  コルカタで国葬が行われる。マザーハウスに埋葬されている。
-2003年10月19日 +'''2003年10月19日'''
 教皇ヨハネ・パウロ二世により、福者に列される。  教皇ヨハネ・パウロ二世により、福者に列される。
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 +==マザー・テレサの精神==
 + '''「すべての人は愛し愛されるために創られました。ヒンドゥー、ムスリム、ユダヤ教徒、キリスト教徒、人種や宗教の別なく男性も女性も子供も神の子なのです。」''' 
 + テレサは神を愛し、すべての人を愛した。
 + ノーベル賞を受賞した際、'''「私はノーベル平和賞にふさわしい者ではありません。けれど世界中の貧しい人々に代わって、この名誉ある賞をいただきます。私のための受賞晩餐会はいりません。どうぞ、そのお金を貧しい人々のためにお使い下さい。」'''という言葉を残し、記念スピーチ賞金の19万ドルは、飢えに苦しむ人々の食料、人々から見放された孤独な人々のホームの建設資金に当てられた。 彼女は貧困で苦しんでいる人々に対して同情するのではなく、生涯心からの愛を与え続けた。彼女の精神は'''「愛されるより愛しなさい。与えられるより与えなさい」'''という言葉に支えられていたのであろう。
 +
 +
 +==参考==
 +マザー・テレサ追悼リンク集(http://www.sinbun.co.jp/kenkou/link/mother.html#9)
 +
 +マザー・テレサ関連 インデックス(http://www.cbcj.catholic.jp/mother/index.htm)

最新版

経歴

1910年8月27日  旧ユーゴスラビアのスコピエに生まれ、アグネス・ゴンジャと命名される。

1925年  アイルランドのロレット修道会に入会。

1928年12月1日  ダージリンで修練を始めるためにインドに派遣される。

1929年5月23日  修道名としてテレサと改名。修練者としてダージリンで修練を始める(19歳)。

1937年5月24日  聖マリア高等学校校長となる。同時に修道院外にある聖テレサ女学校でも教えることになり、スラムの貧しい人々をまのあたりにする。

1946年8月16日  暴動のためコルカタの町は大混乱に陥る。テレサ、町に食糧を探しにでかける。

1946年9月10日  「決意の日」。黙想会に出席のため、ダージリンに向かう汽車の中で、「貧しい人々とともにいるキリストに尽くしなさい」という神のうながしを感じ、コルカタのスラムで働く決意をする。

1948年7月末  4月12日付で修道会を退会。(38歳)

1948年8月8日  3か月間、パトナのアメリカン医療宣教修道女会経営の「聖家族病院」で、看護の集中訓練を受ける。

1948年12月21日  最初のスラム街学校開設の許可を得て子どもたちを集めて青空教室を始める。

1950年  国籍をユーゴスラビアからインドに移す。

1950年10月7日  ミッショナリーズ・オブ・チャリティー「神の愛の宣教者会」を創立し、コルカタ大司教より認可を受ける。この時、メンバーは12人になっていた。この時から、シスター・テレサは、マザー・テレサと呼ばれるようになった。その後、会員が増え活動も増えた。インドを中心に世界55か国に211の修道院が開設され、会員は2000人を越えした。

1952年  「死を待つ人の家」開設。(42歳)

1955年  初めての「孤児の家」が開設される。(45歳) 

1959年  ハンセン病診療所開設。(49歳) ハンセン病診療所は「平和の村」と呼ばれている。

1964年  ローマ教皇パウロ六世インド訪問の折、謁見。教皇帰国に際してインド滞在中乗っていた車をプレゼントされ、マザー・テレサに残す。彼女は、それを売り、貧しい人への奉仕にあてる。

1965年2月1日  「神の愛の宣教者会」教皇認可を受ける。ベネズエラにセンター開設。

1971年1月6日  パウロ六世教皇より、ヨハネ二十三世教皇平和賞受賞。

1972年  ジョン・F・ケネディ賞受賞。

1975年  アルベルト・シュバイツアー賞受賞。

1976年11月  アジア宗教者平和会議に出席(シンガポール)。

1978年4月  東京に修道士のセンター開設。

1979年12月10日  ノーベル平和賞受賞。ノルウェーのオスロで記念講演。「私はノーベル平和賞にふさわしい者ではありません。けれど世界中の貧しい人々に代わって、この名誉ある賞をいただきます。私のための受賞晩餐会はいりません。どうぞ、そのお金を貧しい人々のためにお使い下さい。」記念スピーチ賞金の19万ドルは、飢えに苦しむ人々の食料、人々から見放された孤独な人々のホームの建設資金に当てられた。

1981年5月24日  東京に修道院を開設。

1983年11月  エリザベス女王より、優秀修道会賞を受賞。

1984年  「神の愛の宣教者会」(司祭の会)創立

1990年9月  心臓病で入院。一時は再起を危ぶまれるが、回復し10月退院。ペースメーカーを埋め込む手術を受ける。

1991年5月  バングラディッシュのサイクロン被災者の緊急援助に当たる。

1991年12月26日  メキシコのティファナ訪問中、肺炎にかかり、一時危篤に陥る。アメリカ、カルフォルニア州ラホヤのスクリップス病院に入院。手術を受ける。

1997年9月5日  永眠

1997年9月13日  コルカタで国葬が行われる。マザーハウスに埋葬されている。

2003年10月19日  教皇ヨハネ・パウロ二世により、福者に列される。


マザー・テレサの精神

 「すべての人は愛し愛されるために創られました。ヒンドゥー、ムスリム、ユダヤ教徒、キリスト教徒、人種や宗教の別なく男性も女性も子供も神の子なのです。」   テレサは神を愛し、すべての人を愛した。  ノーベル賞を受賞した際、「私はノーベル平和賞にふさわしい者ではありません。けれど世界中の貧しい人々に代わって、この名誉ある賞をいただきます。私のための受賞晩餐会はいりません。どうぞ、そのお金を貧しい人々のためにお使い下さい。」という言葉を残し、記念スピーチ賞金の19万ドルは、飢えに苦しむ人々の食料、人々から見放された孤独な人々のホームの建設資金に当てられた。 彼女は貧困で苦しんでいる人々に対して同情するのではなく、生涯心からの愛を与え続けた。彼女の精神は「愛されるより愛しなさい。与えられるより与えなさい」という言葉に支えられていたのであろう。


参考

マザー・テレサ追悼リンク集(http://www.sinbun.co.jp/kenkou/link/mother.html#9)

マザー・テレサ関連 インデックス(http://www.cbcj.catholic.jp/mother/index.htm)


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