尊王攘夷運動
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2008年11月10日 (月) 02:17の版
尊王攘夷運動は、文久から元治時代(1861~1865年)にかけて盛んとなった思想で、江戸幕末期の革命の旗印となった政治理論・運動のことである。
そもそも尊王攘夷とは、尊王論と攘夷思想が結びついたものである。「王(天皇)を尊び、夷(外国)を攘(はら)う」という意味であり、尊王論も攘夷思想も江戸時代を通じて存在していた。当初、この尊王攘夷論は幕府が天皇尊崇の姿勢を示し、攘夷を外交の基本方針とすることにより、鎖国維持や幕藩体制の再建しようとする目的で説かれたものであり、討幕をめざすものではなかった。当時、欧米列強の東アジア侵略が進み、アヘン戦争をはじめフェートン号事件やゴローニン事件といった外国との紛争が起こったため、江戸の天下泰平の世の中(鎖国体制下の社会)を邪魔されたくないと「攘夷」運動が活発化していた。そして1853年、アメリカ合衆国の東インド艦隊司令官ペリーが来航し、「攘夷」と「尊王」が一体化した国家体制の改革思想へと変わっていったのである。
1858年日米修好通商条約の天皇勅許問題により、尊皇攘夷思想は政局をにぎるカギとなっていった。大老井伊直弼が天皇の許可を受けず独断で通商条約を結んだことにより、強い批判が生まれ、井伊直弼は水戸藩士を中心とする尊王攘夷派浪士たちによって暗殺された(桜田門外の変)。またアメリカ総領事ハリスの通訳であったヒュースケンが江戸で暗殺され、翌年には高杉晋作らがイギリス公使館を焼き討ちするなど、激しい尊王攘夷運動へと発展した。
しかし1864年、尊皇攘夷をうたう長州藩が四国艦隊下関砲撃事件により砲撃を受け、その武力差に敗北を期し、長州征伐によって勢力が弱まると尊皇攘夷運動も勢力を弱めていく。そして欧米列強の圧力を排するためには、一時的にでも開国し、外国の技術に学び国内統一と富国強兵を行うべきだとする思想が生まれた。坂本龍馬らの仲介によって、1866年に薩長同盟がなされると、攘夷の不可能さを悟った薩長両藩の改革思想は「討幕」へと転換していった。
参考文献 ・Wikipedia 尊王攘夷論
・エンカルタ総合大百科2004