宗教改革

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2008年11月4日 (火) 15:36の版
Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録)

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-レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonrdo da vinci, 1452-1519)+宗教改革― 英・独Reformation
-フィレンツェの公証人で運動競技、音楽、素描、絵画、彫刻、建築、都市計画、遠近法、光学、天文学、飛行術、水力学、航海術、軍事、構造力学、機械工学、解剖学、生物学、動物学、植物学、地質学、地理学、数学と、さまざまな分野に興味を示し、彼自身「画家は万能でなければ賞賛に値しない」と述べたように、西洋美術史上最も偉大な万能の天才である。+近代初頭に起こった反カトリックの宗教運動。この運動の結果プロテスタント教会が確立され、ルネサンスとともにヨーロッパの近代を開いたという歴史的意義をもつ。1517年ドイツに始まり、スイス・フランス・ネーデルラント・イギリス・デンマーク・ノルウェー・スウェーデンに波及した。この運動の先駆的運動は中世末期の諸国に異端運動としてすでにあらわれていた。イギリスのウィクリフやボヘミアのフスがそれである。
- レオナルドの画歴ははっきりと四つの主な時期に分類される。第1期フィレンツェ時代ではヴェロッキオのもとで修業を積み、1472年には親方として画家組合に登録されている。単独で手掛けた最初の大作は「受胎告知」である。ついでミラノ時代では現存する傑作として「岩窟の聖母」と「最後の晩餐」がある。ルーヴル美術館の「岩窟の聖母」はほぼ確実に1483年に制作が開始された。第2期フィレンツェ時代にはかの有名な「モナ・リザ」と「聖母子と聖アンナ」が制作された。これらの作品はレオナルドの新しい「スフマート技法」の開花を示す作品である。そして、最後の活動期が第2期ミラノ時代以降である。彼は2作目の「岩窟の聖母」を仕上げるために1506年ミラノに戻り、フランス国王フランソワ1世の画家兼技師となった。ところが、このあたりからますます科学的研究に没頭していったようである。事実、晩年の絵画様式に関して現存する唯一の記録はルーヴル美術館蔵の「聖ヨハネ」だけである。 
- レオナルドはその生涯と作品のほとんどあらゆる面で、近代世界へと向かう道を決定する重大な瞬間に立っていた。彼は中世の「普遍性」という観念に固執しつつも、観察と実験および事実に基づく知識の蓄積を重視することにより、「普遍性」には到達できないと見なして専門分化した近代世界への先導役を果たした。彼は美術家の優れた才能と独自の社会的役割を主張して、中世の社会において甘んじていた職人地位から美術家を解放する道を開くことに寄与した。そして美術家が「個人」であり、かつ社会的には流動的な存在で、成功も失敗も本人の意思に委ねられる事業家という、近代の美術家の先駆けとなった。+ドイツにおける宗教改革
- レオナルドは芸術は科学的実験とは異なって、まさに独創性と一回性のうちに本質的価値を有するものであり、彼の科学的な仕事はすべてその芸術に奉仕するものだと主張し続けた。美術家が製図術の精度を高めたのは芸術のためであったが、カメラが発明される以前の数世紀前間に自然科学がこれほど急進的な進歩を遂げたのは、この製図の技術なしには考えらないことであった。レオナルドはまさに西洋文明史上の一つの不思議な時代、すなわち美術が近代科学世界への歩みの先頭に立ち、科学の萌芽が最高の芸術を成就させるための触媒だった、その摩訶不思議な時代に生きたのである。+ ドイツはローマ教会による収奪の的となっていた事情から反カトリック的気運が強く、1517年ルターが贖宥状販売を批判した『九十五カ条の論題』を発表するとたちまち、全国民的反響を呼び、多くの領邦諸侯も政治的経済的利害からそれを支持した。ルターは19年にライプツィヒ討論で教皇および公会議の権力を否定し、20年には『キリスト者の自由』等を発表して改革の理念を表明した。ついで教皇の破門威嚇勅書を公衆の面前で焼却し21年彼をヴォルムスの国家に召喚し所説の撤回を求めたカール5世の要求を拒否して不退転の態度を示した。彼の根本思想は「信仰によってのみ義とされる」とする信仰の徹底的内面化と、聖書のみを唯一至高の権威とする立場、それから帰結される万人司祭制であった。ルターが聖書の独訳を完成したのも、民衆がみずから聖書を読めるようにするためであった。しかし当時のドイツの政治的・社会的情勢は彼の改革運動と絡んで22-23年の騎士戦争や24-25年のドイツ農民戦争を激発させることになり、その鎮圧後、改革運動は国民的基盤を喪失し、カトリック派の皇帝・諸侯と改革派の諸侯・帝国都市の政治的抗争としてのみ展開された。改革派は皇帝の圧迫に対して抗議し、30年にシュマルカルデン同盟を結成し、46-47年のシュマルカルデン戦争を経て、55年のアウグスブルク宗教和議で皇帝にルター派を容認させた。しかし、これは個人の信仰の自由を認めたものではなく、宗派の選択権を諸侯たちに認めたにすぎなかった。

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宗教改革― 英・独Reformation

近代初頭に起こった反カトリックの宗教運動。この運動の結果プロテスタント教会が確立され、ルネサンスとともにヨーロッパの近代を開いたという歴史的意義をもつ。1517年ドイツに始まり、スイス・フランス・ネーデルラント・イギリス・デンマーク・ノルウェー・スウェーデンに波及した。この運動の先駆的運動は中世末期の諸国に異端運動としてすでにあらわれていた。イギリスのウィクリフやボヘミアのフスがそれである。


ドイツにおける宗教改革

 ドイツはローマ教会による収奪の的となっていた事情から反カトリック的気運が強く、1517年ルターが贖宥状販売を批判した『九十五カ条の論題』を発表するとたちまち、全国民的反響を呼び、多くの領邦諸侯も政治的経済的利害からそれを支持した。ルターは19年にライプツィヒ討論で教皇および公会議の権力を否定し、20年には『キリスト者の自由』等を発表して改革の理念を表明した。ついで教皇の破門威嚇勅書を公衆の面前で焼却し21年彼をヴォルムスの国家に召喚し所説の撤回を求めたカール5世の要求を拒否して不退転の態度を示した。彼の根本思想は「信仰によってのみ義とされる」とする信仰の徹底的内面化と、聖書のみを唯一至高の権威とする立場、それから帰結される万人司祭制であった。ルターが聖書の独訳を完成したのも、民衆がみずから聖書を読めるようにするためであった。しかし当時のドイツの政治的・社会的情勢は彼の改革運動と絡んで22-23年の騎士戦争や24-25年のドイツ農民戦争を激発させることになり、その鎮圧後、改革運動は国民的基盤を喪失し、カトリック派の皇帝・諸侯と改革派の諸侯・帝国都市の政治的抗争としてのみ展開された。改革派は皇帝の圧迫に対して抗議し、30年にシュマルカルデン同盟を結成し、46-47年のシュマルカルデン戦争を経て、55年のアウグスブルク宗教和議で皇帝にルター派を容認させた。しかし、これは個人の信仰の自由を認めたものではなく、宗派の選択権を諸侯たちに認めたにすぎなかった。


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