建武の新政(編集中)
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2009年1月15日 (木) 23:01の版
建武の新政
1333年5月に、鎌倉幕府を滅ぼしてから、1336年(建武3年)10月に足利尊氏に降伏するまでの、後醍醐天皇による政治である。
新政が行われた背景
後醍醐天皇が理想とした政治は、醍醐・村上天皇による、平安中期の延期・天暦の頃の政治である。
延期・天暦の頃は院政が無く天皇親政であり、何よりも幕府のような適性政権は存在しなかった。 従って、後醍醐天皇がまず行うべきことは、院政の廃止と鎌倉幕府の倒幕であると考えた。
1321年、後醍醐天皇は、父である後宇多天皇による院政のもとに行われていた朝政を天皇に返させ、新政を開始する。
まず、訴訟全般の処理に当たる役所である「記録所」を再興し、その最終決裁の権限を天皇に帰属させた。
後醍醐天皇は、記録所の設置によって、自らがすべての政務をみるという姿勢を表明した。
新政の開始
鎌倉幕府の討幕を試みた「元弘の変」により後醍醐天皇は幕府に捕らえられ、隠岐島に配流され、替わって幕府に擁立された光厳天皇が即位した。
討幕後、後醍醐天皇は光厳天皇の即位を廃止し、光厳天皇が署名した詔書や官位の無効を宣言し、関白を廃止した。