淀君

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2009年1月16日 (金) 09:49の版
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== 秀吉の死後== == 秀吉の死後==
 しかし、1598年(慶長3年)秀頼6歳・淀君32歳の時、秀吉が死んでしまう。その後、淀君は秀吉の遺言に従い秀頼とともに大坂城の西の丸に入る。大坂城に籠ってからは秀吉の後継者の生母として権力をふるうが、関ヶ原の合戦後勢いのあった徳川氏に対して一歩も譲らず、大阪の陣を経て1615年(元和元年)大坂城で秀頼とともに自害し、49歳で生涯を終えた。  しかし、1598年(慶長3年)秀頼6歳・淀君32歳の時、秀吉が死んでしまう。その後、淀君は秀吉の遺言に従い秀頼とともに大坂城の西の丸に入る。大坂城に籠ってからは秀吉の後継者の生母として権力をふるうが、関ヶ原の合戦後勢いのあった徳川氏に対して一歩も譲らず、大阪の陣を経て1615年(元和元年)大坂城で秀頼とともに自害し、49歳で生涯を終えた。
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 +== 参考文献==
 +人物叢書 新装版「淀君」 著:桑田忠親 

2009年1月16日 (金) 09:54の版

 淀君は、1567年(永禄10年)近江国(現在の滋賀県)小谷で、父浅井長政、母お市の長女として生まれる。父である浅井長政は戦国大名、母のお市は織田信長の妹である。母であるお市は絶世の美女であり、淀君はお市に似た美貌の持ち主とされているが正確には不明である。また、淀君は5人兄弟(男2人・女3人)で妹には徳川秀忠の妻になったお江与がいる。

目次

少女時代

 淀君の少女時代の呼び名はおちゃちゃ(茶々)という。7歳までは小谷城で父母の膝下で戦国大名の娘として何不自由なく育った。しかし、長政が信長に敵対し、攻められたことにより、1573年(天正元年)に浅井氏は滅んでしまう。このとき父である長政と祖父の久政は自害、兄の万福丸は信長の命を受けた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)によって処刑されている。その後、母と3人の姉妹は叔父にあたる織田信包(信長の弟)の元におかれ保護され、8年ほど尾張の清洲城で暮らした。  信長が本能寺の変で死んだ1582年(天正10年)、母お市が織田家の家臣である柴田勝家と再婚し、淀君は母とともに越前の北の庄城(現在の福井県)に移る。だが、その1年後1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れると、母お市は勝家とともに自害し、淀君ら3人の姉妹は秀吉に託された(姉妹は長政の遺児でもあるが信長の血続きでもあったため)。 淀君は17歳にして、2度目の父・生みの母と死に別れ、妹とともに敵方のもとで保護される身の上となった。


秀吉の側室として

 淀君は秀吉の側室となり1589年(天正17年)に秀吉から与えられた淀城で長男鶴松を産んだ。秀吉は正妻のほか側室が16人もいたが子は1人もおらず、鶴松が秀吉にとって初めての子であったため、淀君とその子鶴松は秀吉の寵愛を受けることとなる。だが鶴松は病のため1591年(天正19年)わずか3歳で亡くなってしまう。  その後、淀君は淀城から大阪の二の丸に移り1593年(文禄2年)拾(のちの秀頼)を産む。鶴松の場合と同様に男児であったため、淀君は秀吉の後継者の生母として大きな地位を占めるようになった。


秀吉の死後

 しかし、1598年(慶長3年)秀頼6歳・淀君32歳の時、秀吉が死んでしまう。その後、淀君は秀吉の遺言に従い秀頼とともに大坂城の西の丸に入る。大坂城に籠ってからは秀吉の後継者の生母として権力をふるうが、関ヶ原の合戦後勢いのあった徳川氏に対して一歩も譲らず、大阪の陣を経て1615年(元和元年)大坂城で秀頼とともに自害し、49歳で生涯を終えた。


参考文献

人物叢書 新装版「淀君」 著:桑田忠親 


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