南京大虐殺
出典: Jinkawiki
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事件の背景として、南京の前にも、日本軍は移動中に上海、蘇州、無錫、嘉興、杭州、紹興、常州のような場所でも捕虜や市民への虐殺・略奪を続けていたとされ、日本軍兵士・将校の従軍日記や回想録から、進軍中にそれらが常態化していたのではないかと疑われている。否定説では「中国軍が民間人を巻き込むため国際法で禁止されている便衣戦術(ゲリラ戦術)を採っていたため」などと虐殺の責任を中国側に転嫁する主張がみられる。同様に、中国軍が後退する中で後に来る日本軍に何も与えない為に行った空室清野戦術によると見る向きもある。 | 事件の背景として、南京の前にも、日本軍は移動中に上海、蘇州、無錫、嘉興、杭州、紹興、常州のような場所でも捕虜や市民への虐殺・略奪を続けていたとされ、日本軍兵士・将校の従軍日記や回想録から、進軍中にそれらが常態化していたのではないかと疑われている。否定説では「中国軍が民間人を巻き込むため国際法で禁止されている便衣戦術(ゲリラ戦術)を採っていたため」などと虐殺の責任を中国側に転嫁する主張がみられる。同様に、中国軍が後退する中で後に来る日本軍に何も与えない為に行った空室清野戦術によると見る向きもある。 | ||
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+ | 高校日本史A 実教出版株式会社 2006 | ||
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+ | 現代歴史学と南京事件 笠原十九司・吉田裕編 柏書房 2006 | ||
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概要
1937年12月、日本軍は国民政府の首都南京を占領した。その前後数週間の間に、日本軍は、南京市内外で捕虜・投降兵をはじめ婦女子を含む中国人約20万人を殺害し、略奪・放火や婦女子への暴行をおこなった。当時の中島師団長は、12月13日の日記に、捕虜にはしない方針であり、佐々木部隊だけで約1万5千人を「処理」したと記している。 南京での大虐殺事件は、日本国内には知らされず、東京・名古屋・大阪などでは「南京陥落」を祝って提灯行列がおこなわれていたが、欧米では『ニューヨーク‐タイムズ』などによって「捕虜全員殺される」と報道され、国際的非難が沸きあがった。
被害者数
被害者数については数千人とする説から、数十万人にのぼるとするものまで様々であり、虐殺事件の存在自体を否定する説もある。日本の研究者らは数万人程度(うち保守主義者では数百人 - 1万数千人規模説、一部に否定説)と考える人が多く、海外では数十万と捉える研究者が多い。
事件の背景
事件の背景として、南京の前にも、日本軍は移動中に上海、蘇州、無錫、嘉興、杭州、紹興、常州のような場所でも捕虜や市民への虐殺・略奪を続けていたとされ、日本軍兵士・将校の従軍日記や回想録から、進軍中にそれらが常態化していたのではないかと疑われている。否定説では「中国軍が民間人を巻き込むため国際法で禁止されている便衣戦術(ゲリラ戦術)を採っていたため」などと虐殺の責任を中国側に転嫁する主張がみられる。同様に、中国軍が後退する中で後に来る日本軍に何も与えない為に行った空室清野戦術によると見る向きもある。
戦争裁判
この事件は第二次世界大戦後、戦争犯罪として極東国際軍事裁判と南京軍事法廷で審判された。
極東国際軍事裁判では、事件当時に中支那方面軍司令官であった松井石根(当時、陸軍大将)が、不法行為の防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして死刑となった。
南京軍事法廷では、当時、第6師団長だった谷寿夫(当時、陸軍中将)が起訴され死刑となった。谷は申弁書の中で虐殺は中島部隊(第16師団)で起きたものであり、自分の第6師団は無関係と申し立てを行っている。その他、百人斬り競争として報道された野田毅(当時、陸軍少尉)と向井敏明(当時、陸軍少尉)、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして田中軍吉(当時、陸軍大尉)が死刑となった。
一方、上海派遣軍の司令官であった朝香宮鳩彦(当時、陸軍中将)については訴追されなかった。これは朝香宮が皇族であり、天皇をはじめ皇族の戦争犯罪を問わないというアメリカの方針に基づいている。
参考文献
高校日本史A 実教出版株式会社 2006
現代歴史学と南京事件 笠原十九司・吉田裕編 柏書房 2006
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』