アルベルト・アインシュタイン
出典: Jinkawiki
2009年1月19日 (月) 17:31の版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
最新版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) |
||
11 行 | 11 行 | ||
〈参考文献〉 | 〈参考文献〉 | ||
- | 編集代表・桑原武夫 1980 世界電機大辞典1<世界編> 株式会社ほるぷ出版 | + | |
+ | 編集代表・桑原武夫 1980 世界伝記大辞典1<世界編> 株式会社ほるぷ出版 | ||
発行者・大高利夫 1995 20世紀西洋人名辞典1.ア~ノ 日外アソシエーツ株式会社 | 発行者・大高利夫 1995 20世紀西洋人名辞典1.ア~ノ 日外アソシエーツ株式会社 | ||
著者・山口智司 2007 トンデモ偉人伝-天才編- 株式会社彩図社 | 著者・山口智司 2007 トンデモ偉人伝-天才編- 株式会社彩図社 |
最新版
アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein, 1879-1955)
ドイツ出身、ユダヤ系アメリカ人の理論物理学者。20世紀最大の物理学者の一人。教員や家庭教師のアルバイトを経て、スイス特許局に3級技術技師として就職。「光量子仮説」、「特殊相対性理論」、「一般相対性理論」など、当時の物理的世界に対して画期的理論を発表し、1921年ノーベル物理学賞を受賞。ヨーロッパ各地の大学教授やカイザー・ウィルヘルム研究所物理学部長を歴任した後、アメリカに亡命。晩年は統一場理論の研究に傾倒し、哲学や思想に影響を与えた。また、彼は、熱烈な平和主義者であり、核兵器禁止運動に力を注ぐため、ラッセルとともにパグウォッシュ会議を創設した。
1879年3月14日、南ドイツのウルムでアインシュタインは生まれた。後の彼の偉大な功績には似つかわしくなく、幼少時代の彼は決して優等生ではなかった。むしろ、劣等性であったと言える。アインシュタインは、9歳の頃までまともに話をすることも出来なかったという。しかし、自然の法則を深く考えることには大きな喜びを感じており、他の科目は興味を示さなかったものの、好きであった物理学と数学ではその天才ぶりを発揮し、16歳の時には、ユークリッド幾何学に接して深い感動を覚え、この頃には微分積分をマスターしている。
数学や物理学で天才ぶりを発揮していたアインシュタインであったが、彼の正規の中等教育は、彼の反抗的態度が他の者に悪影響を与えるとして、退学処分を受けてしまう。そこで、彼はスイスのチューリッヒにある連邦工科大学(FIT)を志願するが、数学以外の学科の成績が良くなかったため入学できず、校長の忠告でアーラウ州立学校の卒業免許を取り、1896年に自動的にFITへの入学が許可された。
アインシュタインは、1933年、エイブラハム・フレックスの誘いからアメリカのプリンストン高級研究所に在籍した。そして、1939年、レオ・シラード及びユージン・P・ウィグナーが起草したフランクリン・ローズヴェルト大統領宛の有名な手紙にサインして、彼は事実上、原子爆弾製造に必要な資金や資源の動員に重要な役割となってしまった。1945年、第二次世界大戦における広島への原爆投下により、アインシュタインのE=mc²という有名な公式が証明された時、平和主義者である彼は激しい衝撃を受けたという。1955年、プリンストンで彼の生涯は閉じた。
〈参考文献〉
編集代表・桑原武夫 1980 世界伝記大辞典1<世界編> 株式会社ほるぷ出版
発行者・大高利夫 1995 20世紀西洋人名辞典1.ア~ノ 日外アソシエーツ株式会社
著者・山口智司 2007 トンデモ偉人伝-天才編- 株式会社彩図社