壬申の乱
出典: Jinkawiki
2009年1月7日 (水) 11:56の版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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- | 天智天皇の死後後つぎをめぐる争いが、天皇の弟、大海人皇子と天皇の子である大友皇子との間でおこり、豪族たちも2つに分かれ幾何を中心にした大戦乱となった。この戦いで勝利した大海人皇子は、天武天皇となり天皇の祖先や日本の歴史を整理してまとめる仕事を命じるなどして(後の古事記、日本書紀になる)、天皇の地位を高め、新しい天皇中心の政治体制を協力に作りあげていった。 | + | 天智天皇の死後、後つぎをめぐる争いが、天皇の弟、大海人皇子と天皇の子である大友皇子との間でおこり、豪族たちも2つに分かれ幾何を中心にした大戦乱となった。この戦いで勝利した大海人皇子は、天武天皇となり天皇の祖先や日本の歴史を整理してまとめる仕事を命じるなどして(後の古事記、日本書紀になる)、天皇の地位を高め、新しい天皇中心の政治体制を協力に作りあげていった。 |
- | <なぜ壬申の乱は起こったのか> | + | '''<なぜ壬申の乱は起こったのか>''' |
当時天皇の後継者は子どもがなるときまっていたわけではなく、天皇の弟などがなる場合も、珍しくなかった。特に天智天皇の場合、子である大友皇子の母の身分が低かったので、皇位継承において、大海人皇子を支持する者が、朝廷内には多かった。 | 当時天皇の後継者は子どもがなるときまっていたわけではなく、天皇の弟などがなる場合も、珍しくなかった。特に天智天皇の場合、子である大友皇子の母の身分が低かったので、皇位継承において、大海人皇子を支持する者が、朝廷内には多かった。 | ||
また弟の大海人皇子に愛されていた額田王を自分の妃にしてしまったり、反対の声を聞かずに都を大津宮に移したりなど、強引なところがあった天智天皇の性格に対する豪族たちの反発が強かったのではないかとも考えられる。 | また弟の大海人皇子に愛されていた額田王を自分の妃にしてしまったり、反対の声を聞かずに都を大津宮に移したりなど、強引なところがあった天智天皇の性格に対する豪族たちの反発が強かったのではないかとも考えられる。 | ||
また戦前は教科書から壬申の乱が削除されていた。戦前の教育では、天皇は絶対的な存在であり、争わないことになっていたためであった。 | また戦前は教科書から壬申の乱が削除されていた。戦前の教育では、天皇は絶対的な存在であり、争わないことになっていたためであった。 | ||
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+ | '''<経歴>''' | ||
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+ | 大津京での大海人皇子は皇太弟という地位であり,次期天皇としての役割も担(にな)っていました。飛鳥から大津京に移ってからは,中臣(藤原)鎌足とともに天智天皇を補佐して政治の中心にいました。急進的な改革を進める天智天皇には反対する豪族たちも多くいましたが,その調整役としての大海人皇子の役割は大きいものでした。そういう立場でもあり,また,温厚な性格であったために,周りの者たちは次の天皇は天智天皇の同母弟の大海人皇子だと信じていました。 | ||
+ | しかし,天智天皇は子の大友皇子が成長するにつれ,その優秀な才能を認めて次の天皇にすることを考え始めます。また,大友皇子の生母は地方豪族(伊賀)の娘で身分が低いため,大海人皇子を天皇とする考えが強くありました。そのため大友皇子を次の天皇とするためには周りが納得できる理由がなくてはなりません。 | ||
+ | 天智天皇はだんだん大海人皇子を疎(うと)んじるようになります。さらに,それまでの慣例だった同母兄弟相続から,父子直系相続という皇位継承(こういけいしょう)方法に変えることを表に出します。これによって大海人皇子が次期天皇になることはなくなりました。そして,しだいに政治からも遠ざけられるようになっていきました。 | ||
+ | 大海人皇子は天皇になる意志がないことを伝え,それを素早く実行することで自らの,そして家族の命をも救うことになります。大海人皇子は武器を朝廷に返し,出家して,数人の舎人(とねり-身辺を警護する役)たちや妃の鵜野讃良皇女(注1 うののさららのひめみこ-後に藤原京で政治を行った持統天皇),幼い子供らを連れて都(大津京)を去ります。 | ||
+ | <大友皇子の政治> | ||
+ | 671年12月 天智天皇が46歳で没すると,子の大友皇子(乱当時25歳)の政治が始まります。 当時,大友皇子が大王になっていなくても,実質的には政治の実権を握っていました。 | ||
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+ | '''<決断のとき>''' | ||
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+ | 672年5月 吉野の大海人皇子のもとへ緊急事態を知らせる者がやってきます。近江の朝廷が先の天皇の陵(みささぎ-墓)を造ると言って美濃と尾張の農民を集め,武器も持たせているというのです。また,大津京から飛鳥にかけて朝廷の見張りが置かれ,さらに,吉野への食料を運ぶ道を閉ざそうとする動きも伝わってきました。大友皇子の妃で,大海人皇子と額田王(ぬかたのおおきみ)との子十市(といち)皇女からも朝廷の動きを伝えてきました。 | ||
+ | いよいよ自分の身に危険が迫っており,今こそ決断の時と考え,吉野を出て戦うことを決意します。そのためには,安全な地へ身を移さねばなりません。大海人皇子は自分の私領地がある美濃への脱出を決行します。そして,舎人たちに命じて東国(現在の三重県東部・岐阜県・愛知県・長野県)の豪族たちを味方にするよう準備を進めます。 | ||
+ | この結果、大海人皇子軍は大友皇子の軍を破り、天皇の地位につきます。 | ||
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+ | '''<勝因・敗因>''' | ||
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+ | 大海人皇子の勝因 | ||
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+ | ① 倉歴道(くらふのみち),鈴鹿関,不破の道を早くから確保したこと。 | ||
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+ | ② 朝廷に不満を持つ近畿の中小豪族が味方になり大海人皇子の舎人たちを中心とした兵士軍の組織作りもしっかりしていた。 | ||
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+ | ③ 東国,特に尾張の兵が多数味方したことと,美濃,三河,伊勢,信濃,甲斐の兵が集結したこと。 | ||
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+ | 大友皇子の敗因 | ||
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+ | ① 朝廷内の動揺が激しく,組織作りに手間取った。 | ||
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+ | ② 九州の豪族が要請に応えなかった。また,西国の豪族の団結力が弱かった。 | ||
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+ | ③畿内の大豪族が味方したが,将軍が内紛を起こして分裂してしまった。 | ||
参考文献 | 参考文献 | ||
「総合的研究社会」旺文社 | 「総合的研究社会」旺文社 | ||
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+ | 「飛鳥の扉」壬申の乱 http://www.asuka-tobira.com/jinshin/kantan.htm |
最新版
<壬申の乱>
天智天皇の死後、後つぎをめぐる争いが、天皇の弟、大海人皇子と天皇の子である大友皇子との間でおこり、豪族たちも2つに分かれ幾何を中心にした大戦乱となった。この戦いで勝利した大海人皇子は、天武天皇となり天皇の祖先や日本の歴史を整理してまとめる仕事を命じるなどして(後の古事記、日本書紀になる)、天皇の地位を高め、新しい天皇中心の政治体制を協力に作りあげていった。
<なぜ壬申の乱は起こったのか>
当時天皇の後継者は子どもがなるときまっていたわけではなく、天皇の弟などがなる場合も、珍しくなかった。特に天智天皇の場合、子である大友皇子の母の身分が低かったので、皇位継承において、大海人皇子を支持する者が、朝廷内には多かった。 また弟の大海人皇子に愛されていた額田王を自分の妃にしてしまったり、反対の声を聞かずに都を大津宮に移したりなど、強引なところがあった天智天皇の性格に対する豪族たちの反発が強かったのではないかとも考えられる。 また戦前は教科書から壬申の乱が削除されていた。戦前の教育では、天皇は絶対的な存在であり、争わないことになっていたためであった。
<経歴>
大津京での大海人皇子は皇太弟という地位であり,次期天皇としての役割も担(にな)っていました。飛鳥から大津京に移ってからは,中臣(藤原)鎌足とともに天智天皇を補佐して政治の中心にいました。急進的な改革を進める天智天皇には反対する豪族たちも多くいましたが,その調整役としての大海人皇子の役割は大きいものでした。そういう立場でもあり,また,温厚な性格であったために,周りの者たちは次の天皇は天智天皇の同母弟の大海人皇子だと信じていました。 しかし,天智天皇は子の大友皇子が成長するにつれ,その優秀な才能を認めて次の天皇にすることを考え始めます。また,大友皇子の生母は地方豪族(伊賀)の娘で身分が低いため,大海人皇子を天皇とする考えが強くありました。そのため大友皇子を次の天皇とするためには周りが納得できる理由がなくてはなりません。 天智天皇はだんだん大海人皇子を疎(うと)んじるようになります。さらに,それまでの慣例だった同母兄弟相続から,父子直系相続という皇位継承(こういけいしょう)方法に変えることを表に出します。これによって大海人皇子が次期天皇になることはなくなりました。そして,しだいに政治からも遠ざけられるようになっていきました。 大海人皇子は天皇になる意志がないことを伝え,それを素早く実行することで自らの,そして家族の命をも救うことになります。大海人皇子は武器を朝廷に返し,出家して,数人の舎人(とねり-身辺を警護する役)たちや妃の鵜野讃良皇女(注1 うののさららのひめみこ-後に藤原京で政治を行った持統天皇),幼い子供らを連れて都(大津京)を去ります。 <大友皇子の政治> 671年12月 天智天皇が46歳で没すると,子の大友皇子(乱当時25歳)の政治が始まります。 当時,大友皇子が大王になっていなくても,実質的には政治の実権を握っていました。
<決断のとき>
672年5月 吉野の大海人皇子のもとへ緊急事態を知らせる者がやってきます。近江の朝廷が先の天皇の陵(みささぎ-墓)を造ると言って美濃と尾張の農民を集め,武器も持たせているというのです。また,大津京から飛鳥にかけて朝廷の見張りが置かれ,さらに,吉野への食料を運ぶ道を閉ざそうとする動きも伝わってきました。大友皇子の妃で,大海人皇子と額田王(ぬかたのおおきみ)との子十市(といち)皇女からも朝廷の動きを伝えてきました。 いよいよ自分の身に危険が迫っており,今こそ決断の時と考え,吉野を出て戦うことを決意します。そのためには,安全な地へ身を移さねばなりません。大海人皇子は自分の私領地がある美濃への脱出を決行します。そして,舎人たちに命じて東国(現在の三重県東部・岐阜県・愛知県・長野県)の豪族たちを味方にするよう準備を進めます。 この結果、大海人皇子軍は大友皇子の軍を破り、天皇の地位につきます。
<勝因・敗因>
大海人皇子の勝因
① 倉歴道(くらふのみち),鈴鹿関,不破の道を早くから確保したこと。
② 朝廷に不満を持つ近畿の中小豪族が味方になり大海人皇子の舎人たちを中心とした兵士軍の組織作りもしっかりしていた。
③ 東国,特に尾張の兵が多数味方したことと,美濃,三河,伊勢,信濃,甲斐の兵が集結したこと。
大友皇子の敗因
① 朝廷内の動揺が激しく,組織作りに手間取った。
② 九州の豪族が要請に応えなかった。また,西国の豪族の団結力が弱かった。
③畿内の大豪族が味方したが,将軍が内紛を起こして分裂してしまった。
参考文献
「総合的研究社会」旺文社