徳川秀忠
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徳川秀忠(とくがわひでただ)
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生い立ち
天正七年(1957年)4月7日、申の刻(午後4時ごろ)遠江国浜松城に徳川家康の三男として生まれた。生母は家康の側室の西郷局、通称お愛の方であり、幼名を長丸といった。
天正十八年(1590年)長丸12歳の時に京都の聚楽第にて元服した。このとき秀吉から名前を一字賜り、秀忠と名乗った。
文禄四年(1595年)お江与をめとった。お江与は秀吉の養女であり、父は浅井長政であり、母は織田信長の妹お市である。伏見城で婚約が行われ、このとき、秀忠は16歳、お江与は22歳の2度の離婚歴がある姉さん女房であった。
慶長十年(1605年)に征夷大将軍の座に着く。三男であったが、世子が回ってきたのは長男の信康が信長によって自害させられ、次男の結城秀康も秀吉のもとに養子入りしたためである。
治世
一国一城令(1615年)居城以外の城郭の破却を命じた。これは大名統制を目的としたものであり、大名が力を持ちすぎないようにした。
武家諸法度元和令(1615年)大名に対して出されたもので、内容は、将軍に報告せず勝手に結婚してはならない、城を修理する場合はあらかじめ届け出ること、文武弓馬の道を極めることに専念しなければならないなどがある。これは、秀忠の名で発布されているが、家康の命で金地院崇伝が起草したものである。
この法令に違反すると、改易、減封、転封などの処罰がくだされます。改易とは領地を没収され、家を断絶させられる処分を言います。実際に広島城主福島正則が広島城修築の罪でこの処分を受けています。そのほか全国諸大名39家も改易を受けています。減封は石高を減らされる処分を言います。転封は大名の支配地を変えるもので、今でいう転勤のようなものになります。
禁中並公家諸法度(1615年)禁中とは禁裏のことであり、天皇をさします。公家は貴族のことを指します。これは朝廷統制を目的として出されました。内容は、天皇は第一に学問にはげまれるべきである、元号を変える際は中国の漢朝の年号から選ぶこと、僧侶に紫衣を勅許に濫用がみられるため制限するものなどがあった。
最期
寛永八年(1631年)、53歳の正月から食欲不振におちいる。3月になると腹痛を訴えたので、外科医が診察した。サナダ虫と診立てられ、鍼と灸をおこなった。
7月中旬気分の良い日があり、江戸城内の紅葉山へ参拝するが、急に胸や腹が痛みに襲われ苦しみだす。幕閣はこれ以上、秀忠の病を隠しておけなくなり、7月17日に大御所の御不例(病気)を公表した。
8月になると病状はやや落ち着き、食欲も増してきた。しかし、9月に入ると再び、腹痛などが起こり、体もやせてきた。
11月には吐血と思われる血の固まりを吐き、暮れには危篤とまで伝えられた。寛永九年の正月には諸大名を迎える年賀の行事にも出席できず、1月半ばから憔悴して薬は一切服用しようとしなかった。
1月24日、54歳をもって冥界入りした。遺体は芝の増上寺に葬られた。昭和三十三年(1985年)にこの増上寺の改修工事が行われ、同時に学術調査も行われた。その際、将軍遺体の身体計測も行われ、秀忠の身長は158.0㎝前後だったと思われる。
参考文献
篠田達明 「徳川将軍家十五代のカルテ」 新潮社
石川晶康 「石川日本史B講義の実況中継②」 語学春秋社
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