黒田孝高

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 +小松哲史  2008 〈人使い〉の極意 乱世を生き抜いた知将の至言
『太閤記』 田村高廣 『太閤記』 田村高廣
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『徳川家康』 入川保則 『徳川家康』 入川保則

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黒田 孝高(くろだ よしたか)は1546年12月22日、姫路に生まれた。武家出身という伝えもあるが、正確な記録は残っていない。大名、武将そして策略家として活躍し、信長の時代から秀吉、江戸初期までその才能を発揮した。

1578年、播磨の大きな勢力である別所長治が織田側に反旗を翻した。また、同じく重臣で織田のもとにいた荒木村重も謀反し、有岡城に籠城した。このとき、孝高は翻意を促すため城に入ったが捕虜となり、足に怪我もした。この怪我が影響し、その後の戦では指揮を執るにとどまることが多くなった。1580年に秀吉が姫路城を孝高に返還しようとしたが、孝高の進言もあり、城は播州統治の拠点とされた。その後孝高は信長から播磨国の山崎に1万石を与えられ、秀吉の与力となって参謀として活躍するようになる。

1581年には、孝高の作戦で秀吉が因幡の鳥取城を兵糧攻めし、見事落城した。周辺の米を買い占めた上で完全に包囲して兵糧の補給を絶ち、鳥取城内を飢餓で凄惨極まりない状況に追い込んだ。城中の備蓄米が少ないことを見抜いた的確な戦略であったと言われる。


本能寺の変を経て秀吉が国を動かし始めてからも様々な戦において勝利に貢献し続けた。天正11年から13年頃に、孝高はキリスト教の洗礼を受けていたが、1587年7月に秀吉が出したバテレン追放令によって孝高は率先して令に従った。秀吉の側近である孝高の行いは、篤く遇していた宣教師やキリスト教を信仰する諸大名に大きな衝撃を与えた。関ヶ原の合戦の後、孝高は福岡城に移り、そこでその後は政治に関与することなく隠居生活を送った。1604年4月、京都伏見藩邸にて死去。59歳。


参考資料

小松哲史  2008 〈人使い〉の極意 乱世を生き抜いた知将の至言

『太閤記』 田村高廣

『徳川家康』 入川保則


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