享保の改革
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享保の改革とは、商品経済の発展により変質に遂げつつあった幕藩体制を安定強化するために、江戸幕府八代将軍徳川吉宗が主導して行った一連の改革政治をいう。
吉宗は、紀州藩主光貞の四男に生まれが、相次いで兄が死去し本家を継ぎ、藩主として十二年間、財政窮乏の解決をはかった。その後、将軍として十三年間務め、享保の改革を指導してきた。吉宗は「諸事権現様(家康)通り」を主義として掲げ、将軍親裁を強化した。家柄による役職の独占的な世襲制を排し、下級幕臣でも優秀な幕臣人材が登用できる足し高の制により幕府官僚制の整備をした。足高の制とは低い家禄のものでも在職中は禄高の不足分を補給する制度である。また、旗本・御家人の財政救済のため諸大名に対し知行高一万石につき100石ずつ差し出させ、これを旗本・御家人への給付に与える上米の制を実施した。 農村政府では、定額の徴収を行う定免制を敷いて年貢を強化し、大規模な新田開発を進め、あるいは甘藷など新作物の開発奨励するなど、積極政策をとった。また米価安定、通貨統一、株仲間整備などの商業資本の統制にも留意した。 さらに吉宗は、幕政改革の参考にするために、江戸城竜ノ口評定所前に目安箱という投票箱を設置し、一般庶民はこれに進言・要求・不満などを投書することができた。この投書により、吉宗は小石川養成所の設置や江戸市中の防火方針などを定めることとなった。 さいごに、「公事方御定書」というのは、幕初以来の重要法令を集成した江戸幕府の基本法典である。裁判の促進、追放刑の制限、残酷な刑罰の緩和、縁坐や拷問の制限、時効の制定など、享保期には、司法にも、法令で世を治めることが進んだ。 享保の改革は幕府財政を安定させたという点が評価され、その後に同じく緊縮財政を機軸とした寛政の改革、天保の改革の手本ともなった。しかし、一方で年貢増徴など農民に負担を強いる政策が行われたこと、幕府創業時あるいは5代将軍綱吉時代初期を範と考えるあまりに現実の社会の流れに一部で逆行する政策が見られたこと、享保年間中期以後に財政再建や物価対策を急ぐあまり「一時凌ぎ」的な法令を濫発したことなどは、却って幕府・将軍の権威を弱め、社会的な矛盾を後々に残す結果となった。事実、年貢を家宣・家継時代の四公六民(実際には平均2割7分6厘)の負担から五公五民・5割に引き上げた結果、人口の伸びは無くなり一揆も以前より増加傾向になっているのである。
【参考文献】『日本史小辞典』竹内理三編,角川書店,昭和61年
『日本の歴史6 江戸時代』深谷克己著,岩波書店,2000年