村方騒動

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 江戸時代において、百姓一揆・騒動において村落の長である庄屋の罷免要求や、庄屋打ちこわしが多くみられたように、高揚した一揆・騒動において、百姓内部の対立が顕在していた。一揆・騒動に至らない百姓内部の対立・抗争は、広範な村方騒動として展開した。村社会は、ハレの日の祭礼と平穏な日常を繰り返したが、どんな村でも、村方騒動と出入りが起こることがあった。村請制のもとでは、村役人に広範な徴租と監督の権限をゆだねており、村役人は自分の判断でことを進める機会が多かったため、不正が発生する余地があった。他方、小前百姓が強くなり、村役人の不正や独断を見逃さなくなったので、訴訟で不正を暴こうとする村方騒動が頻繁になったのである。  江戸時代において、百姓一揆・騒動において村落の長である庄屋の罷免要求や、庄屋打ちこわしが多くみられたように、高揚した一揆・騒動において、百姓内部の対立が顕在していた。一揆・騒動に至らない百姓内部の対立・抗争は、広範な村方騒動として展開した。村社会は、ハレの日の祭礼と平穏な日常を繰り返したが、どんな村でも、村方騒動と出入りが起こることがあった。村請制のもとでは、村役人に広範な徴租と監督の権限をゆだねており、村役人は自分の判断でことを進める機会が多かったため、不正が発生する余地があった。他方、小前百姓が強くなり、村役人の不正や独断を見逃さなくなったので、訴訟で不正を暴こうとする村方騒動が頻繁になったのである。
-小前は、年貢・村入用の勘定不正、普請・助郷役の人足割付、田畑の横領、入会地の不正使用など広範に発言し、不公平や私欲横領があると果敢に告発した。村の中の経済や政治の力関係が変わると、家格やその標識をめぐる争い、土地兼併が進むと小作年貢など村社会の変化につれて紛争が展開し、村役人の退役を求めたりした(不帰依)。新旧の勢力争いから、分村運動に進む場合もあった。どの村でも財政の規模が拡大しているにも関わらず、それを年度ごとに監査する仕組みが工夫されてなかったことも、騒動頻発の一因になった。村方騒動は、小前が訴願し、領主と説諭の内済のすすめで、周辺の村役人や寺院などが扱人となり、和談で決着させ、文書で確認することが多かった。百姓一揆の要求項目になる場合もあり、しだいに争いが長期化した。+ 小前は、年貢・村入用の勘定不正、普請・助郷役の人足割付、田畑の横領、入会地の不正使用など広範に発言し、不公平や私欲横領があると果敢に告発した。村の中の経済や政治の力関係が変わると、家格やその標識をめぐる争い、土地兼併が進むと小作年貢など村社会の変化につれて紛争が展開し、村役人の退役を求めたりした(不帰依)。新旧の勢力争いから、分村運動に進む場合もあった。どの村でも財政の規模が拡大しているにも関わらず、それを年度ごとに監査する仕組みが工夫されてなかったことも、騒動頻発の一因になった。村方騒動は、小前が訴願し、領主と説諭の内済のすすめで、周辺の村役人や寺院などが扱人となり、和談で決着させ、文書で確認することが多かった。百姓一揆の要求項目になる場合もあり、しだいに争いが長期化した。
 1792(寛政4)年2月、武蔵国都筑郡増上寺領王禅寺村の約70戸の百姓のうち58戸の惣代として、弥太郎・新左衛門、百姓代忠兵衛・小平次は、村方入用の軽減、年貢や入用の割付・勘定に百姓代参加、年貢納入期の役人接待費用の分担を門割から高割に変更、年貢納入経費を門割から高割に変更、の四点を村役人に交渉したが拒まれ、領主に村役人非法を訴えた。訴えられたのは、名主の志村忠蔵・伊左衛門および年寄伝得左衛門・庄蔵の四人で、割付・勘定への百姓代立ち会いは認めたが、他は慣例や物価高を理由に拒否した。門割は上層に有利で、高割は財力に応じた均等負担であった。  1792(寛政4)年2月、武蔵国都筑郡増上寺領王禅寺村の約70戸の百姓のうち58戸の惣代として、弥太郎・新左衛門、百姓代忠兵衛・小平次は、村方入用の軽減、年貢や入用の割付・勘定に百姓代参加、年貢納入期の役人接待費用の分担を門割から高割に変更、年貢納入経費を門割から高割に変更、の四点を村役人に交渉したが拒まれ、領主に村役人非法を訴えた。訴えられたのは、名主の志村忠蔵・伊左衛門および年寄伝得左衛門・庄蔵の四人で、割付・勘定への百姓代立ち会いは認めたが、他は慣例や物価高を理由に拒否した。門割は上層に有利で、高割は財力に応じた均等負担であった。

2009年1月23日 (金) 13:37の版

 江戸時代において、百姓一揆・騒動において村落の長である庄屋の罷免要求や、庄屋打ちこわしが多くみられたように、高揚した一揆・騒動において、百姓内部の対立が顕在していた。一揆・騒動に至らない百姓内部の対立・抗争は、広範な村方騒動として展開した。村社会は、ハレの日の祭礼と平穏な日常を繰り返したが、どんな村でも、村方騒動と出入りが起こることがあった。村請制のもとでは、村役人に広範な徴租と監督の権限をゆだねており、村役人は自分の判断でことを進める機会が多かったため、不正が発生する余地があった。他方、小前百姓が強くなり、村役人の不正や独断を見逃さなくなったので、訴訟で不正を暴こうとする村方騒動が頻繁になったのである。  小前は、年貢・村入用の勘定不正、普請・助郷役の人足割付、田畑の横領、入会地の不正使用など広範に発言し、不公平や私欲横領があると果敢に告発した。村の中の経済や政治の力関係が変わると、家格やその標識をめぐる争い、土地兼併が進むと小作年貢など村社会の変化につれて紛争が展開し、村役人の退役を求めたりした(不帰依)。新旧の勢力争いから、分村運動に進む場合もあった。どの村でも財政の規模が拡大しているにも関わらず、それを年度ごとに監査する仕組みが工夫されてなかったことも、騒動頻発の一因になった。村方騒動は、小前が訴願し、領主と説諭の内済のすすめで、周辺の村役人や寺院などが扱人となり、和談で決着させ、文書で確認することが多かった。百姓一揆の要求項目になる場合もあり、しだいに争いが長期化した。

 1792(寛政4)年2月、武蔵国都筑郡増上寺領王禅寺村の約70戸の百姓のうち58戸の惣代として、弥太郎・新左衛門、百姓代忠兵衛・小平次は、村方入用の軽減、年貢や入用の割付・勘定に百姓代参加、年貢納入期の役人接待費用の分担を門割から高割に変更、年貢納入経費を門割から高割に変更、の四点を村役人に交渉したが拒まれ、領主に村役人非法を訴えた。訴えられたのは、名主の志村忠蔵・伊左衛門および年寄伝得左衛門・庄蔵の四人で、割付・勘定への百姓代立ち会いは認めたが、他は慣例や物価高を理由に拒否した。門割は上層に有利で、高割は財力に応じた均等負担であった。 領主は解決を双方の協定に委ね、関係帳簿の整備がすすんだ。名寄帳・年貢本帳が改訂され、家別の年貢手帳が新たに作られた。その過程で、百姓代の立会いと高割への切り替えが認められ、小町の要求はほとんど通った。さらに名寄帳・年貢本帳の副本を百姓方にも預け、経費細目や割付方法について明文化した村議定を作成することとなった。

【参考文献】『日本の歴史6 江戸時代』深谷克己著,岩波書店,2000年


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