貝塚

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2008年10月14日 (火) 16:10の版
Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録)

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- 貝塚には、堆積土の中に多くの貝殻が含まれ、そのカルシウム分の多さから、様々の自然遺物がよく保存されているので、貝塚を作った人々がどんな食物を食べていたかがよく分かる。また、生活のあとを示す、土器、石器、骨角器などの道具類が出土し、墓のあとや、住居址など当時の村そのものが発見される。+ 貝塚には、堆積土の中に多くの貝殻が含まれ、そのカルシウム分の多さから、様々の自然遺物がよく保存されているため、貝塚を作った人々がどんな食物を食べていたかがよく分かる。また、生活のあとを示す、土器、石器、骨角器などの道具類が出土し、墓のあとや、住居址など当時の村そのものが発見される。
 日本で記録された貝塚は、ほとんどが縄文時代のもので、その数は2500を下らないといわれている。特に、東北~東海までの太平洋側の海岸部に貝塚が多く、なかでも、関東平野の東京湾内に集中している。東北、関東地方の太平洋岸は、縄文時代から漁類の豊富な資源量のためか、巨大な面積を持つ貝塚が多く発見されている。  日本で記録された貝塚は、ほとんどが縄文時代のもので、その数は2500を下らないといわれている。特に、東北~東海までの太平洋側の海岸部に貝塚が多く、なかでも、関東平野の東京湾内に集中している。東北、関東地方の太平洋岸は、縄文時代から漁類の豊富な資源量のためか、巨大な面積を持つ貝塚が多く発見されている。
 + つまり、貝塚は縄文時代の特徴の一つであり、当時の生活を知る手がかりとなると言える。
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海から遠くにあった貝塚 海から遠くにあった貝塚
   
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 東京湾沿岸、霞が浦沿岸地域の貝塚分布状況は東京湾周辺に加曽利、姥山、堀之内、貝の花(以上、千葉県)、中里、大森(以上、東京都)、夏島、南堀(以上、神奈川県)貝塚などの大型貝塚があり、現在の海岸線より70km以上も内陸部に入った栃木県藤岡にも貝塚が存在している。これは、つぎのような地球全体の気候変化に基づく移動であったと考えられる。  東京湾沿岸、霞が浦沿岸地域の貝塚分布状況は東京湾周辺に加曽利、姥山、堀之内、貝の花(以上、千葉県)、中里、大森(以上、東京都)、夏島、南堀(以上、神奈川県)貝塚などの大型貝塚があり、現在の海岸線より70km以上も内陸部に入った栃木県藤岡にも貝塚が存在している。これは、つぎのような地球全体の気候変化に基づく移動であったと考えられる。
 縄文時代が始まる今から約1万数千年前頃は、最後の氷河期の影響が残っており比較的寒冷な気候下にあったが、約7000~5000年前(縄文時代早期~前期)になると地球の温暖化が進み、それに従って海水面も上昇、内陸部まで汀線が上昇していく結果となった。推定値では、現在の海水面より、約5~6mも上昇したという。  縄文時代が始まる今から約1万数千年前頃は、最後の氷河期の影響が残っており比較的寒冷な気候下にあったが、約7000~5000年前(縄文時代早期~前期)になると地球の温暖化が進み、それに従って海水面も上昇、内陸部まで汀線が上昇していく結果となった。推定値では、現在の海水面より、約5~6mも上昇したという。
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アメリカ人モースの大森貝塚発見 アメリカ人モースの大森貝塚発見
   
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 アメリカ人モースという学者は、明治10年(1877年)に東京大学の外国人教師として日本へやって来た。専門は動物学であったが、非常に広い知識を持った人であった。  アメリカ人モースという学者は、明治10年(1877年)に東京大学の外国人教師として日本へやって来た。専門は動物学であったが、非常に広い知識を持った人であった。
 モースが横浜から、汽車に乗って東京へ来たとき、汽車の窓から見ていると大森駅を過ぎた辺りで、線路脇の崖の下に貝殻が積み重なっているのを見つけた。モースは、アメリカでの経験ですでに貝塚についての知識があったため、ひと目でこれが貝塚であると分かった。これが「大森貝塚」。  モースが横浜から、汽車に乗って東京へ来たとき、汽車の窓から見ていると大森駅を過ぎた辺りで、線路脇の崖の下に貝殻が積み重なっているのを見つけた。モースは、アメリカでの経験ですでに貝塚についての知識があったため、ひと目でこれが貝塚であると分かった。これが「大森貝塚」。
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 この発掘から、日本の遺跡の科学的な研究が始まることになった。  この発掘から、日本の遺跡の科学的な研究が始まることになった。
   
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主な貝塚の発掘年 主な貝塚の発掘年
-1877年 大森貝塚(東京都)+1877年 大森貝塚(東京都)、1879年 陸平貝塚(茨城県)、1924年 朝日貝塚(富山県)、加曽利貝塚(千葉県)、1926年 是川貝塚(青森県)、1927年 大木囲貝塚(宮城県)、1950年 夏島貝塚(神奈川県)、1972-85年 鳥浜貝塚(福井県)、1978年 先苅貝塚(愛知県)、1996年 中里貝塚(東京都)
-1879年 陸平貝塚(茨城県)+ 
-1924年 朝日貝塚(富山県)、加曽利貝塚(千葉県)+
-1926年 是川貝塚(青森県)+
-1927年 大木囲貝塚(宮城県)+
-1950年 夏島貝塚(神奈川県)+
-1972-85年 鳥浜貝塚(福井県)+
-1978年 先苅貝塚(愛知県)+
-1996年 中里貝塚(東京都)+
引用文献 引用文献
-小山修三 著 縄文時代 コンピューター考古学による復元 中公新書 1984年+ 
-松尾光 編著 時代の流れが図解でわかる! 早わかり古代史 日本実業出版社 2002年+小山修三 著 「縄文時代 コンピューター考古学による復元」中公新書 1984年
-泉拓良・西田泰民 編集 縄文世界の一万年 集英社 1999年+ 
-佐倉朔・乙益重隆 著 日本列島のルーツ 縄文から弥生へ ニュートンプレス 2001年+松尾光 編著 「時代の流れが図解でわかる! 早わかり古代史」日本実業出版社 2002年
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 +泉拓良・西田泰民 編集 「縄文世界の一万年」集英社 1999年
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 +佐倉朔・乙益重隆 著 「日本列島のルーツ 縄文から弥生へ」ニュートンプレス 2001年

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 貝塚には、堆積土の中に多くの貝殻が含まれ、そのカルシウム分の多さから、様々の自然遺物がよく保存されているため、貝塚を作った人々がどんな食物を食べていたかがよく分かる。また、生活のあとを示す、土器、石器、骨角器などの道具類が出土し、墓のあとや、住居址など当時の村そのものが発見される。  日本で記録された貝塚は、ほとんどが縄文時代のもので、その数は2500を下らないといわれている。特に、東北~東海までの太平洋側の海岸部に貝塚が多く、なかでも、関東平野の東京湾内に集中している。東北、関東地方の太平洋岸は、縄文時代から漁類の豊富な資源量のためか、巨大な面積を持つ貝塚が多く発見されている。  つまり、貝塚は縄文時代の特徴の一つであり、当時の生活を知る手がかりとなると言える。    


海から遠くにあった貝塚  

 東京湾沿岸、霞が浦沿岸地域の貝塚分布状況は東京湾周辺に加曽利、姥山、堀之内、貝の花(以上、千葉県)、中里、大森(以上、東京都)、夏島、南堀(以上、神奈川県)貝塚などの大型貝塚があり、現在の海岸線より70km以上も内陸部に入った栃木県藤岡にも貝塚が存在している。これは、つぎのような地球全体の気候変化に基づく移動であったと考えられる。  縄文時代が始まる今から約1万数千年前頃は、最後の氷河期の影響が残っており比較的寒冷な気候下にあったが、約7000~5000年前(縄文時代早期~前期)になると地球の温暖化が進み、それに従って海水面も上昇、内陸部まで汀線が上昇していく結果となった。推定値では、現在の海水面より、約5~6mも上昇したという。  その後、今から4000~3000年前(縄文中期~後期)にまた寒冷な時期があり、海水面が現在より約1~2m下降するが、約2000年前に現在と同じ気候状況に落ち着いたようである。このような、海水面の動き(縄文海進・海退)によって、縄文人は内陸奥部にも移動して多くの貝塚を形成したようである。


アメリカ人モースの大森貝塚発見  

 アメリカ人モースという学者は、明治10年(1877年)に東京大学の外国人教師として日本へやって来た。専門は動物学であったが、非常に広い知識を持った人であった。  モースが横浜から、汽車に乗って東京へ来たとき、汽車の窓から見ていると大森駅を過ぎた辺りで、線路脇の崖の下に貝殻が積み重なっているのを見つけた。モースは、アメリカでの経験ですでに貝塚についての知識があったため、ひと目でこれが貝塚であると分かった。これが「大森貝塚」。  モースは、数か月の準備の後に、明治10年の大森貝塚を発掘して調べた。発掘は日本人学生も手伝い、6人を使って約1ヵ月間続き、この発掘で大量の遺物を掘り出すことができたが、そのなかには縄文土器、石器、動物の骨の他に、人骨も発見された。そして、これらの研究の結果が論文として発表された。  この発掘から、日本の遺跡の科学的な研究が始まることになった。  


主な貝塚の発掘年

1877年 大森貝塚(東京都)、1879年 陸平貝塚(茨城県)、1924年 朝日貝塚(富山県)、加曽利貝塚(千葉県)、1926年 是川貝塚(青森県)、1927年 大木囲貝塚(宮城県)、1950年 夏島貝塚(神奈川県)、1972-85年 鳥浜貝塚(福井県)、1978年 先苅貝塚(愛知県)、1996年 中里貝塚(東京都)


引用文献

小山修三 著 「縄文時代 コンピューター考古学による復元」中公新書 1984年

松尾光 編著 「時代の流れが図解でわかる! 早わかり古代史」日本実業出版社 2002年

泉拓良・西田泰民 編集 「縄文世界の一万年」集英社 1999年

佐倉朔・乙益重隆 著 「日本列島のルーツ 縄文から弥生へ」ニュートンプレス 2001年


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