生類憐みの令

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2008年11月4日 (火) 23:11の版
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-○生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)<br>+'''○生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)<br>'''
-江戸時代の元禄期に5代将軍「徳川綱吉」によって出された多数のお触れ(法令)のことである。「犬」が対象とされていたかのように思われているが、実際には犬だけではなく、猫や鳥、さらには魚類・貝類・虫類などの生き物にまで及んだ。僧に「将軍は、戌年生まれなので、世継ぎがほしかったら犬を愛護するとよい」と勧められたため、特に犬が保護された。綱吉自身が犬好きで、100匹の狆犬を飼っていたという。1687年以降、犬に関して極端化し、1695年には、江戸西郊の四谷や大久保、中野に犬小屋が設置された。この中には総面積が16万坪におよび、10万匹の野犬を収容できるものもあった。綱吉の死後、宝暦6年(1709年)、新井白石が6代将軍家宣の補佐役となると綱吉の葬式も終えぬうちに真っ先にこの法令は廃止された。+ 生類憐みの令とは江戸時代の元禄期に5代将軍「徳川綱吉」によって出された多数のお触れ(法令)のことである。動物、特に「犬」が対象となり愛護されていたかのように思われているが、実際には犬だけではなく、猫や鳥、さらには魚類、貝類、虫類などの生き物にまで及んでいる。綱吉は僧に「将軍は、戌年生まれなので、世継ぎがほしかったら犬を愛護するとよい」と勧められたため、特に犬が保護された。綱吉自身が犬好きで、100匹の狆犬を飼っていたという話もある。1687年以降、犬に関して極端化し、1695年には、江戸西郊の四谷や大久保、中野に犬小屋が設置された。この中には総面積が16万坪におよび、非常に広く、10何匹の野犬を収容できるものもあった。綱吉の死後、宝暦6年(1709年)、新井白石が6代将軍家宣の補佐役となると綱吉の葬式も終えないうちに真っ先にこの法令は廃止された。<br>
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 +'''○主な条文<br>'''
 + 生類憐みの令の主な条文を挙げてみよう。<br>
-○主な条文<br> 
一、将軍御成りの時に人が土下座しても、犬や猫をつないでおく必要はない<br> 一、将軍御成りの時に人が土下座しても、犬や猫をつないでおく必要はない<br>
一、町内には犬用の水と書いた桶、柄杓を置くべし<br> 一、町内には犬用の水と書いた桶、柄杓を置くべし<br>
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一、違反者を密告した者には、賞金を与える<br> 一、違反者を密告した者には、賞金を与える<br>
-○法令に対する批判<br>+これらの条文から、生類憐みの令は生き物に対する非常に極端な愛護令だったということが分かる。この法令に対して多くの批判があったということは言うまでもない。<br>
-1695年~1696年(元禄8年~9年)、元禄の大飢饉という東北を中心とする東北地方をおそった冷害は、収穫が平年の3割しかなく死者は津軽では、領民の3分の1に相当する5万以上の犠牲者を出した。飢饉で苦しむ人たちの惨状に、生類憐みの令は悲惨さを増した。鳥獣を食べるために穫ることも許されず、害獣の駆除もできない。さらに長く続いた生類憐みの令のために、鳥も獣も人を恐れることがないので、飢饉で彷徨する人は息のあるうちにカラスやトンビに襲われ、倒れれば野犬の餌食となったという。この飢饉は、全国的にも影響を及ぼした。この様な飢饉の中でも、幕府は8万匹の野犬を中野犬小屋に収容し、犬一匹につき一日に白米3合、味噌50匁(約187グラム)干しイワシ一合与え、江戸町民の間では米価騰貴の中での幕府の犬への厚い待遇に対して、憤りが高まった。+
 +'''○法令に対する批判<br>'''
 +1695年~1696年(元禄8年~9年)、元禄の大ききんという東北地方をおそった冷害は、作物の収穫が平年の3割程度しかなく、津軽では領民の3分の1に相当する5万以上の犠牲者を出した。ききんで苦しむ人たちの惨状に、生類憐みの令は悲惨さを増した。鳥獣を食べるために穫ることも許されず、害獣の駆除もできない。さらに長く続いた生類憐みの令のために、鳥も獣も人を恐れることがないので、ききんで彷徨する人は息のあるうちにカラスやトンビに襲われ、倒れれば野犬の餌食となったという。人間よりも他の生き物の方が優遇されていたと言っても過言ではないようである。このききんは、全国的にも影響を及ぼした。この様なききんの中でも、幕府は8万匹の野犬を中野にあった犬小屋に収容し、犬一匹につき一日に白米3合、味噌50匁(約187グラム)、干しイワシ一合を与え、江戸町民の間では米価騰貴の中での幕府の犬への厚い待遇に対して、憤りが高まった。<br>

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○生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)
 生類憐みの令とは江戸時代の元禄期に5代将軍「徳川綱吉」によって出された多数のお触れ(法令)のことである。動物、特に「犬」が対象となり愛護されていたかのように思われているが、実際には犬だけではなく、猫や鳥、さらには魚類、貝類、虫類などの生き物にまで及んでいる。綱吉は僧に「将軍は、戌年生まれなので、世継ぎがほしかったら犬を愛護するとよい」と勧められたため、特に犬が保護された。綱吉自身が犬好きで、100匹の狆犬を飼っていたという話もある。1687年以降、犬に関して極端化し、1695年には、江戸西郊の四谷や大久保、中野に犬小屋が設置された。この中には総面積が16万坪におよび、非常に広く、10何匹の野犬を収容できるものもあった。綱吉の死後、宝暦6年(1709年)、新井白石が6代将軍家宣の補佐役となると綱吉の葬式も終えないうちに真っ先にこの法令は廃止された。

○主な条文
 生類憐みの令の主な条文を挙げてみよう。

一、将軍御成りの時に人が土下座しても、犬や猫をつないでおく必要はない
一、町内には犬用の水と書いた桶、柄杓を置くべし
一、犬の毛色をすべて帳簿に記して、その出入りを正確に把握せよ
一、蛇・犬・猫・鼠などに芸を教えて見世物にしてはならない
一、犬が行方不明になったら徹底的に探せ
一、鳥類家畜類はもとより、ノミ・蚊・蝿にいたるまで殺してはならない
一、子犬が遊びに出るときは親犬をつけさせよ
一、釣りをしてはならぬ
一、鳥類・貝類・海老などを今後料理してはならない
一、子犬を川へ流してはならない
一、違反者を密告した者には、賞金を与える

これらの条文から、生類憐みの令は生き物に対する非常に極端な愛護令だったということが分かる。この法令に対して多くの批判があったということは言うまでもない。

○法令に対する批判
1695年~1696年(元禄8年~9年)、元禄の大ききんという東北地方をおそった冷害は、作物の収穫が平年の3割程度しかなく、津軽では領民の3分の1に相当する5万以上の犠牲者を出した。ききんで苦しむ人たちの惨状に、生類憐みの令は悲惨さを増した。鳥獣を食べるために穫ることも許されず、害獣の駆除もできない。さらに長く続いた生類憐みの令のために、鳥も獣も人を恐れることがないので、ききんで彷徨する人は息のあるうちにカラスやトンビに襲われ、倒れれば野犬の餌食となったという。人間よりも他の生き物の方が優遇されていたと言っても過言ではないようである。このききんは、全国的にも影響を及ぼした。この様なききんの中でも、幕府は8万匹の野犬を中野にあった犬小屋に収容し、犬一匹につき一日に白米3合、味噌50匁(約187グラム)、干しイワシ一合を与え、江戸町民の間では米価騰貴の中での幕府の犬への厚い待遇に対して、憤りが高まった。


参考文献
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(生類憐みの令)
http://homepage2.nifty.com/gojireomogu/rekishi/edo/1685.html
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/kt62.htm
http://www.seisekiup.net/dictionary/shakai/shi/awaremi.html

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