大日本沿海輿地全図

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2009年1月23日 (金) 18:28の版
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 伊能忠敬が日本全国の測量と地図作成に取り組んだのは、学問的要求から発した個人的行為であった。それは、正確な日本列島の形を調べるとともに緯度1度の距離を測り、地球の円周を計算するということであった。そこで、全国の測量をさせてほしいと願い出た。幕府も蝦夷地周辺にロシア軍が出没し、長崎港にイギリス船が闖入する事件が相次ぎ、国防上の必要に迫られ、蝦夷地調査を検討中であったため、蝦夷地に限って許可した。そして、幕府は1800年(寛政12)に伊能忠敬を蝦夷地測量に向かわせた。                                    伊能忠敬が日本全国の測量と地図作成に取り組んだのは、学問的要求から発した個人的行為であった。それは、正確な日本列島の形を調べるとともに緯度1度の距離を測り、地球の円周を計算するということであった。そこで、全国の測量をさせてほしいと願い出た。幕府も蝦夷地周辺にロシア軍が出没し、長崎港にイギリス船が闖入する事件が相次ぎ、国防上の必要に迫られ、蝦夷地調査を検討中であったため、蝦夷地に限って許可した。そして、幕府は1800年(寛政12)に伊能忠敬を蝦夷地測量に向かわせた。                                  
- 忠敬の地図は、海岸線を測量して作った沿海実測図であった。そのため、内陸部は忠敬自身が歩いた街道以外は描かれていない。しかし、海岸線の描き方は極めて正確であり、それ以前の地図とは比較にならないほどであり、忠敬の地図によって、日本の国土の正確な形がはじめて明らかにされた。忠敬の測量の仕方は、地上の測量に関しては、以前から行われていた、導線法と交会法の組み合わせによるものであった。+ 忠敬の地図は、海岸線を測量して作った沿海実測図であった。そのため、内陸部は忠敬自身が歩いた街道以外は描かれていない。しかし、海岸線の描き方はそれ以前の地図とは比較にならないほど極めて正確であり、忠敬の地図によって、日本の国土の正確な形がはじめて明らかにされた。
 + 忠敬の測量の仕方は、地上の測量に関しては、以前から行われていた、間縄(普通長さ60間「108メートル」、気候による伸縮を防ぐために鉄鎖や鯨のひれを材料とした)によって距離を測り、方位盤(磁針を目盛盤にセットした道具)で方位を測る方法である導線法と、同一の遠い目標に対して、数か所から方位を測定する方法である交会法の組み合わせによるものであった。
 + また、忠敬は地上測量の誤差を補正するために、象限儀という道具を用いて、天体観測を行った。これによって、目標とした事物の位置を測定できるとともに、導線法による測量誤差の修正にも役立てた。            
- 導線法とは、間縄(普通長さ60間「108メートル」、気候による伸縮を防ぐために鉄鎖や鯨のひれを材料とした)によって距離を測り、方位盤(磁針を目盛盤にセットした道具)で方位を測る方法である。+ 忠敬の地上測量の方法は目新しくはなかったが、忠敬の測量は幕府の命によるものであったため、幕府直轄領・大名領・旗本領などの境界を越えて、広い範囲で統一的に丹念に測量を行うことができた。これが正確な地図を作ることができた1つの理由であると言える。
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- 交会法とは、同一の遠い目標に対して、数か所から方位を測定する方法である。これによって、目標とした事物の位置を測定できるとともに、導線法による測量誤差の修正にも役立つ。            +
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- 忠敬の地上測量の方法は目新しくはなかったが、忠敬の測量は幕府の命によるものであったため、幕府直轄領・大名領・旗本領などの境界を越えて、広い範囲で統一的に丹念に測量を行うことができた。これが正確な地図を作ることができた1つの理由である。また、忠敬は地上測量の誤差を補正するために、象限儀という道具を用いて、天体観測を行った。                            +
 蝦夷地の測量が終わると、奥羽・東海・北陸、そして、西日本全域へ拡大。そして、いつの間にか、「幕府御用測量掛」となった。                                                                   蝦夷地の測量が終わると、奥羽・東海・北陸、そして、西日本全域へ拡大。そして、いつの間にか、「幕府御用測量掛」となった。                                                                 

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 伊能忠敬が1800年(寛政12)の北海道南部測量を手はじめとして、以後17年間かかって全国を測量し、作った精密な地図。                             

 伊能忠敬が日本全国の測量と地図作成に取り組んだのは、学問的要求から発した個人的行為であった。それは、正確な日本列島の形を調べるとともに緯度1度の距離を測り、地球の円周を計算するということであった。そこで、全国の測量をさせてほしいと願い出た。幕府も蝦夷地周辺にロシア軍が出没し、長崎港にイギリス船が闖入する事件が相次ぎ、国防上の必要に迫られ、蝦夷地調査を検討中であったため、蝦夷地に限って許可した。そして、幕府は1800年(寛政12)に伊能忠敬を蝦夷地測量に向かわせた。                                  

 忠敬の地図は、海岸線を測量して作った沿海実測図であった。そのため、内陸部は忠敬自身が歩いた街道以外は描かれていない。しかし、海岸線の描き方はそれ以前の地図とは比較にならないほど極めて正確であり、忠敬の地図によって、日本の国土の正確な形がはじめて明らかにされた。  忠敬の測量の仕方は、地上の測量に関しては、以前から行われていた、間縄(普通長さ60間「108メートル」、気候による伸縮を防ぐために鉄鎖や鯨のひれを材料とした)によって距離を測り、方位盤(磁針を目盛盤にセットした道具)で方位を測る方法である導線法と、同一の遠い目標に対して、数か所から方位を測定する方法である交会法の組み合わせによるものであった。  また、忠敬は地上測量の誤差を補正するために、象限儀という道具を用いて、天体観測を行った。これによって、目標とした事物の位置を測定できるとともに、導線法による測量誤差の修正にも役立てた。            

 忠敬の地上測量の方法は目新しくはなかったが、忠敬の測量は幕府の命によるものであったため、幕府直轄領・大名領・旗本領などの境界を越えて、広い範囲で統一的に丹念に測量を行うことができた。これが正確な地図を作ることができた1つの理由であると言える。                              

 蝦夷地の測量が終わると、奥羽・東海・北陸、そして、西日本全域へ拡大。そして、いつの間にか、「幕府御用測量掛」となった。                                                                 

 このようにして、1816年(文化13)に忠敬は日本の全測量を終えた。約8900里、3万5000キロを歩いた。                     

 しかし、1818年(文政元)に74歳で死去した。そのため、225枚の「大日本沿海輿地図」は門人らにより完成させられた。                 


引用文献

日本史新聞編纂委員会編 日本史新聞「日本の出来事」丸ごとスクープ 日本文芸社 1998 

歴史探検ワーキンググループ編  謎で日本史がわかるQ&A100 歴史の謎がわかると日本史が100倍おもしろくなる!  竹内書店新社 2001 

歴史教育者協議会編 100問100答 日本の歴史4近世 河出書房新社 1998                       


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