大阪の役

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-*大阪の役(1614~1615)+大阪の役
-大坂の陣。徳川家康が豊臣家を滅ぼし、天下統一を完成させた戦いとして知られている。+
-*背景 
-本能寺の変で信長が倒れたあと家康は、伊賀越えをした堺から岡崎に帰り、すぐに甲斐・信濃の計略に乗り出しまし、1583年までに甲斐と南信濃を支配下におき、以前から三河・遠江・駿河を含めて五ヶ国の大名となり、信長の地位をひきつぎ全国統一をめざす豊臣秀吉と対抗するまでになった。 
-*開戦理由+•大阪の役(1614~1615)
-鐘の文字「国家安康」である。家康という名前を国家安泰という意味である、国と安に割られているとし、家康を呪ったものであり、同じ鐘に刻まれた「君臣豊楽」の文字も、豊臣家が栄えることを望んだものだと家康が指摘し、結果的に開戦のきっかけとなった。+
-*豊臣家敗戦の原因+ 大坂の陣。徳川家康が豊臣家を滅ぼし、天下統一を完成させた戦いとして知られている。
-豊臣家敗戦の原因としては、大きく2つのことがあげられるだろう。+
-1つ目は、太郎左衛門が徳川軍に寝返ったことだろう。豊臣家の城である大阪城はお堀に囲まれているため、外部から侵入しにくくなっている。そのため、初めは豊臣軍の領域に入ることすらできず、徳川軍を打ち払い、豊臣軍が圧倒的優位であった。+
-しかし、太郎左衛門の寝返りにより、徳川軍に大阪城付近が事細かに書かれた地図を渡し、大阪城に侵入しやすいようにさせてしまったのだ。これにより、徳川軍は一気に大阪城に攻め入り、形勢は一気に逆転し、冬の陣では講和条約をもって終結につながった。+
-2つ目は、豊臣秀頼将軍、自ら兵を率いなかったことである。豊臣家の方は、真田幸村が先頭に立ち、指揮をとったが、大将が出れば、士卒は奮い、倍の力をだすため、真田幸村は、何度か息子の大助を使者にして「御大将ご出馬」あれと、懇願した。しかし、秀頼は、敵の家康が、70余歳の老齢で駿府城からはるばると野戦軍の陣頭に立ってやってきているにも関わらず、ついに大阪城から一歩も出なかったのである。両大将の戦に対する意識の違いが原因の一つとしてあげられるだろう。+
-*資料 
-「大坂夏の陣図屏風」 
-戦いの直後に、福岡藩主黒田家に伝来したもので、夏の陣に東軍として参戦した黒田長政が、参戦した家臣たちに書かせた絵をかき集めて、完成したといわれている。屏風の右側には徳川家康や真田幸村など武将たちによる戦闘の様子、そして左側には、戦火を避けて逃げまどう民衆の悲惨極まりない混乱の様子をそれぞれ極めて精緻に描いており、数ある戦国合戦図屏風の中でも白眉として今日国の重要文化財に指定されている。作者さしては、「八朗兵衛」や「又左衛門」の名が伝えられているが、近年は作風から岩佐又兵衛作と見る解釈も提出されている。 
-屏風に描かれた通り、大坂の陣は、戦乱の世においても非常に珍しい“市街戦”であり、多くの非戦闘員が巻き込まれた戦いであった。雑兵に襲われる女性、首を斬られる農民、奴隷狩りに遭う人々—— これら非戦闘員への被害が拡大した背景には、徳川・豊臣両家の思惑や、政治的、軍事的要因が大きな影響を及ぼしていたことが近年の研究によって明らかになった。さらに最近発見された史料から、この戦いは大坂の民衆を分裂させ、一族同士でさえも殺し合うという最悪の事態を引き起こしていたことが分かってきた。 
-*にせ首+•背景
-民衆の被害が多く出た理由として、抵抗力のない民衆の首を大名の首と偽って持って帰り、恩賞をもらうことを雑兵は考えた。+
-そのため、無抵抗の民衆の多くの首が切られた。そのような首のことをにせ首という。にせ首は1万にも及んだといわれている。+
 + 本能寺の変で信長が倒れたあと家康は、伊賀越えをした堺から岡崎に帰り、すぐに甲斐・信濃の計略に乗り出しまし、1583年までに甲斐と南信濃を支配下におき、以前から三河・遠江・駿河を含めて五ヶ国の大名となり、信長の地位をひきつぎ全国統一をめざす豊臣秀吉と対抗するまでになった。
-参考文献+ 
-http://www.geocities.jp/shimizuke1955/1580bushinoyakata.html+・開戦理由
-燃えよ剣 司馬遼太郎 新潮文庫 + 
-その時歴史は動いた NHK 11月26日放送+ 鐘の文字「国家安康」である。家康という名前を国家安泰という意味である、国と安に割られているとし、家康を呪ったものであり、同じ鐘に刻まれた「君臣豊楽」の文字も、豊臣家が栄えることを望んだものだと家康が指摘し、結果的に開戦のきっかけとなった。
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 +•豊臣家敗戦の原因
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 + 豊臣家敗戦の原因としては、大きく2つのことがあげられるだろう。 1つ目は、太郎左衛門が徳川軍に寝返ったことだろう。豊臣家の城である大阪城はお堀に囲まれているため、外部から侵入しにくくなっている。そのため、初めは豊臣軍の領域に入ることすらできず、徳川軍を打ち払い、豊臣軍が圧倒的優位であった。しかし、太郎左衛門の寝返りにより、徳川軍に大阪城付近が事細かに書かれた地図を渡し、大阪城に侵入しやすいようにさせてしまったのだ。これにより、徳川軍は一気に大阪城に攻め入り、形勢は一気に逆転し、冬の陣では講和条約をもって終結につながった。 2つ目は、豊臣秀頼将軍、自ら兵を率いなかったことである。豊臣家の方は、真田幸村が先頭に立ち、指揮をとったが、大将が出れば、士卒は奮い、倍の力をだすため、真田幸村は、何度か息子の大助を使者にして「御大将ご出馬」あれと、懇願した。しかし、秀頼は、敵の家康が、70余歳の老齢で駿府城からはるばると野戦軍の陣頭に立ってやってきているにも関わらず、ついに大阪城から一歩も出なかったのである。両大将の戦に対する意識の違いが原因の一つとしてあげられるが、これには、秀頼の母淀君が大きく関係しているといわれている。淀君は、息子秀頼を愛するあまり、危ない戦場にだすことを嫌がった。そのため戦の名将と呼ばれていた、真田幸村の案をかたくなに聞き入れず、違う方法を考えろと命じたようだ。
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 +•資料
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 +「大坂夏の陣図屏風」戦いの直後に、福岡藩主黒田家に伝来したもので、夏の陣に東軍として参戦した黒田長政が、参戦した家臣たちに書かせた絵をかき集めて、完成したといわれている。屏風の右側には徳川家康や真田幸村など武将たちによる戦闘の様子、そして左側には、戦火を避けて逃げまどう民衆の悲惨極まりない混乱の様子をそれぞれ極めて精緻に描いており、数ある戦国合戦図屏風の中でも白眉として今日国の重要文化財に指定されている。作者さしては、「八朗兵衛」や「又左衛門」の名が伝えられているが、近年は作風から岩佐又兵衛作と見る解釈も提出されている。屏風に描かれた通り、大坂の陣は、戦乱の世においても非常に珍しい“市街戦”であり、多くの非戦闘員が巻き込まれた戦いであった。雑兵に襲われる女性、首を斬られる農民、奴隷狩りに遭う人々—— これら非戦闘員への被害が拡大した背景には、徳川・豊臣両家の思惑や、政治的、軍事的要因が大きな影響を及ぼしていたことが近年の研究によって明らかになった。さらに最近発見された史料から、この戦いは大坂の民衆を分裂させ、一族同士でさえも殺し合うという最悪の事態を引き起こしていたことが分かってきた。
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 +・にせ首
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 + 民衆の被害が多く出た理由として、抵抗力のない民衆の首を大名の首と偽って持って帰り、恩賞をもらうことを雑兵は考えた。そのため、無抵抗の民衆の多くの首が切られた。そのような首のことをにせ首という。にせ首は1万にも及んだといわれている。
 +・ 秀頼生存説
 +1615年5月8日、豊臣秀頼は自害し豊臣家は滅びた。しかしこの時、遺体が見つからず実は生きていたという説が流れた。秀頼は敵の手薄な北西方面から真田幸村の造ったオランダ船で脱出し10人ほどで薩摩まで逃げ延び種ヶ島蔵人と名乗り隠れ住んだという。後年、寛永年間(1624~1644年)に秀頼は鎧を直してもらうために京都の具足師のもとを訪れた。その時、その具足師が鎧を見て、『これは太閤の鎧ではないか』と、言ったという記録が残されている。薩摩で秀頼は一つの逸話を残している。大男の秀頼は城下街のお店でよくお酒を飲み酒癖が悪くたびたび暴れ、しかもお金を払うと言うことを知らなかったためただ食いして帰っていったという。このため現在でも谷山地方ではただ食いのことを、『谷山犬の食い逃げ』という。
 + また高野山の僧が秀頼らしかったという者がいたなど各地にいろいろな話しが残っている。 鹿児島県には木下さんという秀頼の末裔を名乗る方がおられ、お墓もあるが真相は不明である。
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 +参考文献
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 +http://www.geocities.jp/shimizuke1955/1580bushinoyakata.html
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 +燃えよ剣 司馬遼太郎 新潮文庫 
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 +その時歴史は動いた NHK 11月26日放送
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 +"http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%81%AE%E5%BD%B9" より作成
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 +「日本史サスペンス劇場」 日本テレビ 8月27日放送
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 +http://wrs.search.yahoo.co.jp/S=2114736003/K=%E7%A7%80%E9%A0%BC%E7%94%9F%E5%AD%98%E8%AA%AC/v=2/SID=w/l=WS1/R=1/wdm=2/IPC=jp/ln=ja/H=0/;_ylt=A8vY8wkL33tJ8WYBIRCDTwx.;_ylu=X3oDMTB2cXVjNTM5BGNvbG8DdwRsA1dTMQRwb3MDMQRzZWMDc3IEdnRpZAM-/SIG=12n25h9ei/EXP=1232941195/*-http%3A//tikugo.cool.ne.jp/osaka/yomoyama/jingo/toyotomi-seizon1.html

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大阪の役


•大阪の役(1614~1615)

 大坂の陣。徳川家康が豊臣家を滅ぼし、天下統一を完成させた戦いとして知られている。


•背景

 本能寺の変で信長が倒れたあと家康は、伊賀越えをした堺から岡崎に帰り、すぐに甲斐・信濃の計略に乗り出しまし、1583年までに甲斐と南信濃を支配下におき、以前から三河・遠江・駿河を含めて五ヶ国の大名となり、信長の地位をひきつぎ全国統一をめざす豊臣秀吉と対抗するまでになった。


・開戦理由

 鐘の文字「国家安康」である。家康という名前を国家安泰という意味である、国と安に割られているとし、家康を呪ったものであり、同じ鐘に刻まれた「君臣豊楽」の文字も、豊臣家が栄えることを望んだものだと家康が指摘し、結果的に開戦のきっかけとなった。


•豊臣家敗戦の原因

 豊臣家敗戦の原因としては、大きく2つのことがあげられるだろう。 1つ目は、太郎左衛門が徳川軍に寝返ったことだろう。豊臣家の城である大阪城はお堀に囲まれているため、外部から侵入しにくくなっている。そのため、初めは豊臣軍の領域に入ることすらできず、徳川軍を打ち払い、豊臣軍が圧倒的優位であった。しかし、太郎左衛門の寝返りにより、徳川軍に大阪城付近が事細かに書かれた地図を渡し、大阪城に侵入しやすいようにさせてしまったのだ。これにより、徳川軍は一気に大阪城に攻め入り、形勢は一気に逆転し、冬の陣では講和条約をもって終結につながった。 2つ目は、豊臣秀頼将軍、自ら兵を率いなかったことである。豊臣家の方は、真田幸村が先頭に立ち、指揮をとったが、大将が出れば、士卒は奮い、倍の力をだすため、真田幸村は、何度か息子の大助を使者にして「御大将ご出馬」あれと、懇願した。しかし、秀頼は、敵の家康が、70余歳の老齢で駿府城からはるばると野戦軍の陣頭に立ってやってきているにも関わらず、ついに大阪城から一歩も出なかったのである。両大将の戦に対する意識の違いが原因の一つとしてあげられるが、これには、秀頼の母淀君が大きく関係しているといわれている。淀君は、息子秀頼を愛するあまり、危ない戦場にだすことを嫌がった。そのため戦の名将と呼ばれていた、真田幸村の案をかたくなに聞き入れず、違う方法を考えろと命じたようだ。


•資料

「大坂夏の陣図屏風」戦いの直後に、福岡藩主黒田家に伝来したもので、夏の陣に東軍として参戦した黒田長政が、参戦した家臣たちに書かせた絵をかき集めて、完成したといわれている。屏風の右側には徳川家康や真田幸村など武将たちによる戦闘の様子、そして左側には、戦火を避けて逃げまどう民衆の悲惨極まりない混乱の様子をそれぞれ極めて精緻に描いており、数ある戦国合戦図屏風の中でも白眉として今日国の重要文化財に指定されている。作者さしては、「八朗兵衛」や「又左衛門」の名が伝えられているが、近年は作風から岩佐又兵衛作と見る解釈も提出されている。屏風に描かれた通り、大坂の陣は、戦乱の世においても非常に珍しい“市街戦”であり、多くの非戦闘員が巻き込まれた戦いであった。雑兵に襲われる女性、首を斬られる農民、奴隷狩りに遭う人々—— これら非戦闘員への被害が拡大した背景には、徳川・豊臣両家の思惑や、政治的、軍事的要因が大きな影響を及ぼしていたことが近年の研究によって明らかになった。さらに最近発見された史料から、この戦いは大坂の民衆を分裂させ、一族同士でさえも殺し合うという最悪の事態を引き起こしていたことが分かってきた。


・にせ首

 民衆の被害が多く出た理由として、抵抗力のない民衆の首を大名の首と偽って持って帰り、恩賞をもらうことを雑兵は考えた。そのため、無抵抗の民衆の多くの首が切られた。そのような首のことをにせ首という。にせ首は1万にも及んだといわれている。 ・ 秀頼生存説 1615年5月8日、豊臣秀頼は自害し豊臣家は滅びた。しかしこの時、遺体が見つからず実は生きていたという説が流れた。秀頼は敵の手薄な北西方面から真田幸村の造ったオランダ船で脱出し10人ほどで薩摩まで逃げ延び種ヶ島蔵人と名乗り隠れ住んだという。後年、寛永年間(1624~1644年)に秀頼は鎧を直してもらうために京都の具足師のもとを訪れた。その時、その具足師が鎧を見て、『これは太閤の鎧ではないか』と、言ったという記録が残されている。薩摩で秀頼は一つの逸話を残している。大男の秀頼は城下街のお店でよくお酒を飲み酒癖が悪くたびたび暴れ、しかもお金を払うと言うことを知らなかったためただ食いして帰っていったという。このため現在でも谷山地方ではただ食いのことを、『谷山犬の食い逃げ』という。  また高野山の僧が秀頼らしかったという者がいたなど各地にいろいろな話しが残っている。 鹿児島県には木下さんという秀頼の末裔を名乗る方がおられ、お墓もあるが真相は不明である。

参考文献

http://www.geocities.jp/shimizuke1955/1580bushinoyakata.html


燃えよ剣 司馬遼太郎 新潮文庫 


その時歴史は動いた NHK 11月26日放送


"http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%81%AE%E5%BD%B9" より作成


「日本史サスペンス劇場」 日本テレビ 8月27日放送


http://wrs.search.yahoo.co.jp/S=2114736003/K=%E7%A7%80%E9%A0%BC%E7%94%9F%E5%AD%98%E8%AA%AC/v=2/SID=w/l=WS1/R=1/wdm=2/IPC=jp/ln=ja/H=0/;_ylt=A8vY8wkL33tJ8WYBIRCDTwx.;_ylu=X3oDMTB2cXVjNTM5BGNvbG8DdwRsA1dTMQRwb3MDMQRzZWMDc3IEdnRpZAM-/SIG=12n25h9ei/EXP=1232941195/*-http%3A//tikugo.cool.ne.jp/osaka/yomoyama/jingo/toyotomi-seizon1.html


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