篤姫
出典: Jinkawiki
2008年10月19日 (日) 14:19の版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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天璋院(てんしょういん) / 篤姫(あつひめ) 天保7年2月19日(1836年2月5日)―明治16年(1883年11月20日)享年48歳
鹿児島県薩摩藩島津家の一門に生まれる。実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。島津斉宣の孫に当たる。幼名・一(かつ)。 篤姫が生まれ育った薩摩は、島津家が鎌倉時代より領知し、独自の文化を形成してきた西国の大藩である。 嘉永6年(1853年)、従兄にあたる薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、源篤子(みなとのあつこ)と名を改める。同年8月21日に鹿児島を陸路出立し熊本を経由して江戸藩邸に入る。篤姫の胸には「女の道は一本道、定めに背き引返すは恥にございます」との言葉が深く刻まれていた。これは、篤姫の今和泉家時代の養育係を勤めた奥女中・菊本の遺訓であった。 菊本は、篤姫が斉彬の養女となることが決まったとき、高貴な出でない自分が養育係を勤めたことで篤姫の輝かしい将来に迷惑がかかってはいけないと考え自害した。篤姫は、菊本の死と遺訓から、いざという時の女の凄まじさを学んだのであった。 この後は鹿児島の土を踏むことはなかった。 篤姫が斉彬の養女となったのは、将軍家徳川家定への輿入れを想定に入れたものであった。それ以前から、大奥より島津家に対して縁組みの持ちかけがあった。 大奥の目的は、島津家出身の御台所(広大院)を迎えた先々代将軍・徳川家斉が長寿で子沢山だったことにあやかろうとしたものといわれる。当時の13代将軍・徳川家定の正室は次々と夭死し、家定自身も病弱で子供は一人もいなかったからである。 家定の二人目の御台所が死去すると、将軍家から斉彬に縁組の話が持ち込まれ、篤姫が候補に上がったのである。 当時の日本は、西洋のアジア進出に伴う植民地化が危惧されており、琉球を介してその外圧に直面していた薩摩では、いち早く西洋の科学技術導入に着手していた。 幕閣や近衛家とさまざまな情報交換を行っていた藩主・斉彬は、篤姫婚礼にもこれらの人脈を駆使して奔走したのである。 安政3年(1856年)篤姫21歳の時、右大臣・近衛忠煕の養女となり、その年の11月に家定の正室として江戸城大奥へ、年寄幾島を伴って入った。 しかし安政5年7月6日(1858年8月14日)に夫の将軍・家定が急死し、また同月16日(8月24日)には斉彬までもが亡くなってしまう。篤子の結婚生活はわずか1年9ヶ月であった。家定の死により篤子は落飾。戒名は天璋院殿敬順貞静大姉、通称天璋院と名乗る。同年12月、従三位に叙位。大奥の厳しい掟により、夫の死後も故郷に帰れない天璋院は、同じく政略結婚の犠牲となって朝廷から嫁いだ14代将軍徳川家茂の正室・和宮を支え、大奥を盛り立てていこうと決意する。和宮と天璋院は「嫁姑」の関係にあり、皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いもあってか不仲だったが、後には和解したとされる。また、天璋院自らが擁立する予定だったにも関わらず、15代将軍・慶喜とも仲が悪かったという。 この頃、幕府と薩摩藩との関係は次第に悪化し、ついに薩摩は朝廷と組んで倒幕に立ち上がり、京都から大軍勢を率いて天璋院のいる江戸城へ進軍を開始した。 実家の裏切りに遭い、嫁ぎ先である幕府との間で板挟みとなってしまった天璋院は、徳川家を滅ぼそうと江戸城に総攻撃を仕掛けてきた西郷隆盛に決死の書状を送った。その書状には次のように書かれていた。 「今、国家の形勢はいかばかりかと朝夕心配しております。私は女で無力ですが、徳川に嫁ぎました以上は徳川家の土となり、この家が安全に永らえることを願ってやみません。悲嘆の心中をお察しいただき、私の一命にかけ、何卒お頼み申し上げます。」(『天璋院の西郷宛の書簡』より引用し意訳) 天璋院は命がけで、江戸城無血開城の実現に大きな役割を果たした。それにより、日本を戦火の危機から救い、日本の近代化に大きく貢献したの。 明治維新後は、将軍御台所であった誇りを捨てることなく、田安亀之助こと徳川宗家16代・家達のほか旧幕臣の精神的後見役として徳川家の行く末を見守り、未来の日本を支える人材の育成に心血を注いだ。そして、1883(明治16)年、東京の一橋邸で47歳にして波乱万丈の人生に幕を閉じた。墓所は東京都台東区上野の寛永時で、夫・家定の墓と並べられている。 天璋院は、自分の所持金を切り詰めてでも元大奥の人たちの就職や縁組に奔走して金を恵んでいたため、死に際してその所持金はたった3円(現在の約6万円)しかなかった という。
<参考資料>
・http://www.weblio.jp/content/%E5%A4%A9%E7%92%8B%E9%99%A2
・http://yuuyuukandai.at.webry.info/200802/article_12.html
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