大化改新

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2009年1月25日 (日) 17:04の版

目次

大化の改新とは

645年(大化元)年6月の蘇我氏打倒にはじまる孝徳天皇のときに行われた一連の政治改革。氏姓制度の弊を取り除き、唐の律令制を、基に天皇中心の中央集権国家建設を目標とした。中大兄皇子・中臣鎌足が中心となる。


改革内容

・新政府は、中央豪族の有力者を左大臣・右大臣にするとともに、中臣鎌足が内臣(うちつおみ)、唐から帰国した僧旻・高向玄理(たかむこのげんり)が政治顧問としての国博士となり、中大兄皇子をたすけて政策の立案にあたった。この年に中国にならってはじめての年号をたてて大化(たいか)として、都を難波(なにわ)に移した。

・新政府は、646(大化2)年正月に、4カ条からなる改新の詔を発した。

改新の詔

(1)皇族や豪族が個別に土地・人民を支配する体制をやめて国家の所有として(公地公民制)、豪族にはかわりに食封(じきふ)などを支給する。(上級の役人には食封が、下級の役人には布帛(ふはく)があたえられた。食封とは一定数 の戸(封戸)を指定して、そこからの租税の大部分を与える制度のこと。)

(2)地方の行政区画を定め、中央集権的な政治の体制をつくる。国・郡を定め、国司・郡司を任命。関所・防人などを配置。

(3)戸籍・計帳をつくり、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)を行う。田地支給時の要領と戸籍・計帳の作成。人民の支配と収税体制を整備。(6年毎に戸籍をつくり、班田収授法を行うというのちの令の制度が、このときから行われたかどうかは疑わしい。

(4)あたらしい統一的な税制を施行する。旧制度を廃止し、田の調・戸の調・労役・兵役などを義務づける。


そして、この詔の発布を含めて、以後5年間にわたって薄葬令(はくそうれい)・男女の法(みなのほう)・鐘匱の制(しょうきのせい)などの「大化改新」改革が行われていった。

・薄葬令とは、今まで自由に作れた陵墓を身分に合わせて作ることの出来る陵墓を規定し直した。殉死の禁止や、天皇の陵にかける時間を7日以内に制限するなど、さまざまな制限が加えられた。

・男女の法とは、『日本書紀』大化(たいか)元年(645)8月庚子(こうし)条に記された身分法。人民を良人(りょうじん)と奴婢(ぬひ)に二分し、各身分間の所生子の帰属(所生の奴婢については主に所有権)を規定するもの。良人男女間の子は父に配する。良男と婢の間の子は婢に配し、良女と奴の間の子は奴に配し、奴婢間の子は婢に配し主家の所有とする(奴婢となる)。寺家の仕丁(しちょう)(隷属民)は、奴婢とされている場合以外は良人に準じて法を適用する。

・鐘匱の制とは、国民の直訴を受附けるために、大化の改新の際に設けられた訴訟制度。朝廷に鐘(かね)と匱(ひつ・投書箱)を置き、政治に対する不平や不満があれば、訴状に記名のうえ匱に入れる。それは、毎日天皇に奏上され、天皇は、郡卿と協議して裁定する。もし、訴状が受理されず、あるいは、裁定に誤りがあれば、鐘をついて審理を促すことが出来たといい、これは、中国での類似した制度を模したものであろうという(日本歴史・週間朝日百科)。

背景

中国では、618年隋が滅び、唐がおこった。その唐は、北朝から隋の時代にかけて発達してきた均田制や租調庸制を中心に、律令法にもとづく中央集権的な国家体制の充実をはかった。そして、7世紀前半には貞観の治とよばれる国家のさかんな時代になっていった。こういった唐の発展は、高句麗・百済・新羅にも大きな影響を与えた。

一方日本では、蘇我馬子のあとに蘇我蝦夷(そがのえみし)が大臣となって、皇極天皇のときには蝦夷の子である入鹿(いるか)が権力を自分の手に集中させようとして、643年に、有力な皇位継承者の一人であった山背大兄王(やましろのおおえのおう)をおそい、自殺させた。こうした中で、唐から帰国した留学生や学問僧によって東アジアの動きが伝えられた。伝えられたことによって、皇族や中央の豪族のあいだには、豪族がそれぞれに私地や私民を支配して朝廷の職務を世襲するというこれまでの体制を改めることにした。そして、唐にならった官僚制的な中央集権国家体制をうちたてようとする動きが高まった。そして、645年、のちの藤原鎌足となる中臣鎌足は中大王兄皇子と計画し、蘇我蝦夷と入鹿をほろぼした。中大兄皇子はあらたに即位した孝徳天皇のもとで皇太子となり、新しい政府をつくって国政の改革にのりだした。


参考・引用

「はやわかり古代史」松尾 光

「詳説 日本史」 山川出版社

「日本史B用語集」 山川出版社

http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20060805

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