寛政の改革

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2008年12月21日 (日) 22:26の版
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- '''吉宗の政治を目標とした寛政の改革'''+ '''1.白河藩主となる'''
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- 1787年に白河藩主から老中になった松平定信は田沼の政治を批判、祖父・吉宗による享保の改革を目標として、寛政の改革に乗り出しました。+ 松平定信は、1758年、田安家の子として江戸で生まれた。父の田安宗武は8代将軍徳川吉宗の次男で、定信は吉宗の孫であった。定信は、17歳の時、白河藩(福島県)松平家の養子となり、やがて藩主となった。この頃、東北地方を中心に天明の大飢饉が起こっていたが、定信は藩内で一人の死者も出さずに農村の立て直しに成功し、名君として知られるようになった。飢饉の影響で、各地では百姓一揆や打ちこわしが、しきりに起こっていた。1787年に白河藩主松平定信が老中となった。
-各地に社倉・義倉を建てて米などを蓄えさせる囲米の制や出稼ぎを制限して農村復興に着手したほか、正業を持たない者に旅費を与えて農村へ帰ることを奨励した旧里帰農令の発布や町入用の節約分の70%を積み立てさせた七分積立の制度化など都市政策も積極的におこないました。また、洒落本の山東京伝や黄表紙の恋川春町の弾圧をはじめ、男女混浴の禁止などによって民衆統制政策を打っていきます。それから、朱子学以外の学問を異学とした寛政異学の禁を出し、思想統制もおこないました。+
-寛政の改革は、享保の改革を規範とする復古的理想主義の政治によって幕府財政の立て直しとともに、天明の飢饉で荒廃した農村の復興を目指しました。しかし、厳しい制約や倹約は逆に民衆の反感を買う結果となってしまいます。天保の改革もまた、復古的理想主義の政治を掲げましたが、いずれも失敗に終わっています。天保の改革の上地令(上知令とも書きます)のように、幕府が出した政策があっという間に撤回されるというのは、家康や家光の頃には考えられないことであり、まさに政権末期の状態といえるでしょう。+
- 参考文献:「まるわかり日本史」 須藤公博著 永岡書店+ '''2.寛政の改革を始める'''
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 + この頃、生活が苦しくなった武士は、商人たちから借金をしていた。定信は、質素・倹約を命じるとともに、商人たちからの借金の一部を返さなくてもよいという棄捐令を出した。天明の大飢饉であれた農村を回復させるために定信は江戸に出稼ぎに来ている農民を農村に帰るようにして、出稼ぎを禁止した。また、飢饉や凶作などに備えて、農村に倉を設けて米などを蓄えさせた。さらに、大名にも米を蓄えておく囲米を命じた。また、江戸にいる浮浪者を石川島に集めて職業の指導をして、仕事に就かせるようにした。さらに、町ごとに非常用のためのお金を積み立てさせるなど、定信は江戸の立て直しにも心がけた。
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 + '''3.厳しい取り締まり'''
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 + 武士には学問や武芸をすすめるとともに、武士の学問として朱子学を重んじた。そして、幕府の学校である湯島聖堂の学問所では、朱子学だけを学ばせ、それ以外の儒学は異学として禁止した(寛政異学の禁)。また、定信は、生活を乱すような本や政治を批判する本の出版を禁じた。町人作家の山東京伝を、生活を乱したとして取り締まったほか、沿岸の守りを強めることを主張した林子平を幕府の鎖国を批判したという理由で取り締まった。1792年、ロシアのラックスマンが通商を求めて、蝦夷地(北海道)の根室に来航してきた。その翌年、定信は、在職6年で突然に老中をやめさせられた。その後は、白河藩主に戻って、政治や学問に励んだ。
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 +参考文献:「まるわかり日本史」 須藤公博著 永岡書店 ・ 「らくらく入門塾 日本史講義」 小和田哲男著 ナツメ社 ・ 「人物で分かる日本の歴史」数学研究社

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 1.白河藩主となる

 松平定信は、1758年、田安家の子として江戸で生まれた。父の田安宗武は8代将軍徳川吉宗の次男で、定信は吉宗の孫であった。定信は、17歳の時、白河藩(福島県)松平家の養子となり、やがて藩主となった。この頃、東北地方を中心に天明の大飢饉が起こっていたが、定信は藩内で一人の死者も出さずに農村の立て直しに成功し、名君として知られるようになった。飢饉の影響で、各地では百姓一揆や打ちこわしが、しきりに起こっていた。1787年に白河藩主松平定信が老中となった。

 2.寛政の改革を始める

 この頃、生活が苦しくなった武士は、商人たちから借金をしていた。定信は、質素・倹約を命じるとともに、商人たちからの借金の一部を返さなくてもよいという棄捐令を出した。天明の大飢饉であれた農村を回復させるために定信は江戸に出稼ぎに来ている農民を農村に帰るようにして、出稼ぎを禁止した。また、飢饉や凶作などに備えて、農村に倉を設けて米などを蓄えさせた。さらに、大名にも米を蓄えておく囲米を命じた。また、江戸にいる浮浪者を石川島に集めて職業の指導をして、仕事に就かせるようにした。さらに、町ごとに非常用のためのお金を積み立てさせるなど、定信は江戸の立て直しにも心がけた。

 3.厳しい取り締まり

 武士には学問や武芸をすすめるとともに、武士の学問として朱子学を重んじた。そして、幕府の学校である湯島聖堂の学問所では、朱子学だけを学ばせ、それ以外の儒学は異学として禁止した(寛政異学の禁)。また、定信は、生活を乱すような本や政治を批判する本の出版を禁じた。町人作家の山東京伝を、生活を乱したとして取り締まったほか、沿岸の守りを強めることを主張した林子平を幕府の鎖国を批判したという理由で取り締まった。1792年、ロシアのラックスマンが通商を求めて、蝦夷地(北海道)の根室に来航してきた。その翌年、定信は、在職6年で突然に老中をやめさせられた。その後は、白河藩主に戻って、政治や学問に励んだ。


参考文献:「まるわかり日本史」 須藤公博著 永岡書店 ・ 「らくらく入門塾 日本史講義」 小和田哲男著 ナツメ社 ・ 「人物で分かる日本の歴史」数学研究社


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