松平定信

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定信は、歌人・国学者として著名な父田安宗武の影響もあって、幼少より大塚孝綽(たかすえ)に師事して学問に励み、12歳のとき自分の信条を記した『自教鑑(じきょうかがみ)』を著したのをはじめ、一生のうちに200部近くもの著作を残した。著述の内容は、老中退職以前は『国本論』『物価論』など政治関係のものが多く、退職後は『花月草紙』『楽亭筆記』など文芸に関するものが多い。とくに歌集『三草集』は有名である。このほか古書画、古器物を収集して編纂(へんさん)した『集古十種』『古画図考』や、自叙伝の『宇下人言(うげのひとこと)』『修行録』も有名である。また武芸にも励み、とくに起倒流柔術の師鈴木邦教(くにたか)から伝授された「神武(しんぶ)の道」は、彼の世界観に大きな影響を与えた。 定信は、歌人・国学者として著名な父田安宗武の影響もあって、幼少より大塚孝綽(たかすえ)に師事して学問に励み、12歳のとき自分の信条を記した『自教鑑(じきょうかがみ)』を著したのをはじめ、一生のうちに200部近くもの著作を残した。著述の内容は、老中退職以前は『国本論』『物価論』など政治関係のものが多く、退職後は『花月草紙』『楽亭筆記』など文芸に関するものが多い。とくに歌集『三草集』は有名である。このほか古書画、古器物を収集して編纂(へんさん)した『集古十種』『古画図考』や、自叙伝の『宇下人言(うげのひとこと)』『修行録』も有名である。また武芸にも励み、とくに起倒流柔術の師鈴木邦教(くにたか)から伝授された「神武(しんぶ)の道」は、彼の世界観に大きな影響を与えた。
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 +寛政の改革
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 +浅間山噴火から東北地方を中心とした天明の大飢饉などで一揆や打ちこわしが続発し、その他にも役人の賄賂などがあったため、前任者の田沼意次は失脚する。松平定信は8代将軍徳川吉宗の孫にあたり(父は吉宗の次男・田安宗武、第9代将軍徳川家重の弟)白河藩主から幕府老中となり、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座となる。定信は白河藩主時代に飢饉対策に成功した経験もあり、吉宗の享保の改革を理想とした緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指した。一連の改革は田沼が推進した重商主義(商業重視)政策を否定しており、保守勢力のクーデター的性格を持ち、蘭学の否定や身分制度の徹底も並行して行われた。だが、人足寄場の設置など新規の政策も多く試みられた。
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 +改革は6年余りに及ぶが、「隠密の後ろにさらに隠密を付ける」と言われた定信の神経質で疑り深い気性、また極端な倹約・思想統制令は、庶民や大奥から嫌われ、定信の政権下では改革が思ったほどの成果をあげる事は無かった。しかし、定信が失脚した後は松平信明など寛政の遺老達が引継ぎ、寛政の改革での定信の政策は以後の幕政にも引き継がれる事になった。
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江戸後期の大名。寛政(かんせい)の改革を断行した老中。宝暦(ほうれき)8年12月27日江戸で生まれる。田安宗武(たやすむねたけ)の七男で、8代将軍吉宗(よしむね)の孫にあたる。幼名は賢丸(まさまる)、隠居後は楽翁と号した。1774年(安永3)奥州白河藩主松平定邦(さだくに)の養子となり、翌年従(じゅ)五位下上総介(かずさのすけ)に叙任。83年(天明3)養父定邦の後を継いで白河11万石の藩主となり、従四位下越中守(えっちゅうのかみ)に昇進した。おりしも天明(てんめい)の大飢饉(ききん)に際会、白河領内の士庶の困窮もその極に達したが、定信自ら率先して倹約を重んじ、食糧の緊急輸送、備荒貯蓄や人口の増加、あるいは殖産興業を促すなど、藩財政の立て直しや領民生活の安定化を図り、みごとにこの難局を切り抜けた。やがて彼の藩政は、諸大名の間にその名声を高め、老中田沼意次(おきつぐ)失脚ののちの87年6月、御三家(ごさんけ)および一橋治済(ひとつばしはるさだ)の推挙により老中首座(筆頭)となり、侍従に任じ、いわゆる寛政の改革に着手。翌年3月には将軍補佐の大役をも与えられた。松平信明(のぶあきら)、本多忠籌(ただかず)、戸田氏教(うじのり)、松平乗完(のりさだ)、太田資愛(すけよし)ら同志の譜代(ふだい)大名を幕閣の中枢に登用し、彼らと合議しつつ幕政の振起に努めた。財政の緊縮政策をはじめ、札差棄捐令(きえんれい)、旧里帰農奨励令、七分積金令、人足寄場(にんそくよせば)設置令、出版統制令、風俗匡正(きょうせい)令、物価引下令、異学の禁、江戸湾防備計画等々は、いずれも定信が断行した寛政の改革の有数の政策である。幕府財政再建のために農本主義を基調としているが、都市政策や思想統制にもみるべきものが多い。93年(寛政5)7月老中ならびに将軍補佐役を辞職したが、左近衛権少将(さこのえごんのしょうしょう)に昇任、家格も溜間詰(たまりのまづめ)に昇格、ふたたび白河藩政に意を用いることとなった。彼の辞職の理由は、光格(こうかく)天皇が実父典仁(すけひと)親王に太上(だいじょう)天皇の称号を贈ろうとして定信に反対された尊号一件、および将軍家斉(いえなり)が実父一橋治済を大御所に迎えようとして定信に反対された大御所一件などが絡んでいるといわれる。しかし、その背景として、「それみたか、余り倹約なすゆえに、おもいがけなき、不時の退役」「白河の、清きに魚もすみかねて、元のにごりの、田沼こいしき」などの当時の落首にもみられるように、彼の極度の緊縮政策に対する士庶の批判も考えねばならない。こののち白河藩主として、藩校立教館の拡充や、1810年(文化7)には会津藩とともに江戸湾防備の幕命を受け、房総沿岸に台場を築造したりしたが、12年嫡子定永(さだなが)に封地を譲り、晩年は江戸築地(つきじ)の下屋敷浴恩園に住んで風雅な生活を送った。文政(ぶんせい)12年5月13日没。72歳。江戸深川の霊岸寺に葬り、のち伊勢(いせ)(三重県)桑名の照源寺に分骨した。

定信は、歌人・国学者として著名な父田安宗武の影響もあって、幼少より大塚孝綽(たかすえ)に師事して学問に励み、12歳のとき自分の信条を記した『自教鑑(じきょうかがみ)』を著したのをはじめ、一生のうちに200部近くもの著作を残した。著述の内容は、老中退職以前は『国本論』『物価論』など政治関係のものが多く、退職後は『花月草紙』『楽亭筆記』など文芸に関するものが多い。とくに歌集『三草集』は有名である。このほか古書画、古器物を収集して編纂(へんさん)した『集古十種』『古画図考』や、自叙伝の『宇下人言(うげのひとこと)』『修行録』も有名である。また武芸にも励み、とくに起倒流柔術の師鈴木邦教(くにたか)から伝授された「神武(しんぶ)の道」は、彼の世界観に大きな影響を与えた。

寛政の改革

浅間山噴火から東北地方を中心とした天明の大飢饉などで一揆や打ちこわしが続発し、その他にも役人の賄賂などがあったため、前任者の田沼意次は失脚する。松平定信は8代将軍徳川吉宗の孫にあたり(父は吉宗の次男・田安宗武、第9代将軍徳川家重の弟)白河藩主から幕府老中となり、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座となる。定信は白河藩主時代に飢饉対策に成功した経験もあり、吉宗の享保の改革を理想とした緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指した。一連の改革は田沼が推進した重商主義(商業重視)政策を否定しており、保守勢力のクーデター的性格を持ち、蘭学の否定や身分制度の徹底も並行して行われた。だが、人足寄場の設置など新規の政策も多く試みられた。

改革は6年余りに及ぶが、「隠密の後ろにさらに隠密を付ける」と言われた定信の神経質で疑り深い気性、また極端な倹約・思想統制令は、庶民や大奥から嫌われ、定信の政権下では改革が思ったほどの成果をあげる事は無かった。しかし、定信が失脚した後は松平信明など寛政の遺老達が引継ぎ、寛政の改革での定信の政策は以後の幕政にも引き継がれる事になった。


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