ニート
出典: Jinkawiki
2009年1月27日 (火) 13:47の版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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ニートはその存在自体で青少年に悪影響を及ぼしてしまった。メディアは「子どもが凶悪化した」「子どもがおかしくなった」などの報道を誇張して行い、映像メディアは報道をいっそう過激化し、親たちは自分の子どもが報道されているような子にならないかと不安になってしまう。インターネットの普及も情報があふれすぎて、子どもたちに悪影響をもたらしている。そして、ニート論はいつの間にか労働と教育を「人間の条件」とみなすような世論が拡大した可能性を示唆している。そして、この条件を満たしていないと「プチ人間以下」とみなされて、個人の尊厳を奪われて、脱人間化されるところまで、日本社会が転がり落ちていく可能性がある。このように、青少年ネガティブ・キャンペーンは、若者対策とすれば何でもありの状況になってきた。奴隷的な強制労働や、戎厳令のような夜間外出禁止や、道徳警察が市民の交際に暴力で入り込むと言ったことに繋がってしまう危険を持っている。また、景気の動向や産業構造の変化などのよって割を食った人たちは、まずもって経済の領域で救済すべきです。にもかかわらず、ありもしない教育問題、つまり教育によって改善すべき生活態度の問題としてニート問題がでっち上げられ、あたかも教育に取り組むことによって彼らが救済可能であるかのごとき幻想が支配的になってきた。 | ニートはその存在自体で青少年に悪影響を及ぼしてしまった。メディアは「子どもが凶悪化した」「子どもがおかしくなった」などの報道を誇張して行い、映像メディアは報道をいっそう過激化し、親たちは自分の子どもが報道されているような子にならないかと不安になってしまう。インターネットの普及も情報があふれすぎて、子どもたちに悪影響をもたらしている。そして、ニート論はいつの間にか労働と教育を「人間の条件」とみなすような世論が拡大した可能性を示唆している。そして、この条件を満たしていないと「プチ人間以下」とみなされて、個人の尊厳を奪われて、脱人間化されるところまで、日本社会が転がり落ちていく可能性がある。このように、青少年ネガティブ・キャンペーンは、若者対策とすれば何でもありの状況になってきた。奴隷的な強制労働や、戎厳令のような夜間外出禁止や、道徳警察が市民の交際に暴力で入り込むと言ったことに繋がってしまう危険を持っている。また、景気の動向や産業構造の変化などのよって割を食った人たちは、まずもって経済の領域で救済すべきです。にもかかわらず、ありもしない教育問題、つまり教育によって改善すべき生活態度の問題としてニート問題がでっち上げられ、あたかも教育に取り組むことによって彼らが救済可能であるかのごとき幻想が支配的になってきた。 | ||
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「ニート」という言葉は、単に仕事もしていなければ教育も受けていない若年層、と言う定義を超えて、現代社会の、あるいは若年層の「気分」として認知されるようになっている。そして、そのように認知されることによって、社会的な解決を失い、あるいは社会構造の問題を隠蔽され、最少年の「内面」の問題とみなされてるようになった。本来であれば、「ニート」と言う存在の中で、どのような特徴の人がどれほどいるのか、と言うことを定量化すること、そしてそれらを生み出す社会構造を、「社会が若者を甘えさせている」といった認識を超えて検証するところで、やっと議論の入り口に立つ。しかし我が国において爆発的に増大した「ニート」論は、そのような認識の入り口に立たないまま、幻想のような言説だけが盛り上がりを見せてしまった。いわば、基礎を作らないままに高層ビルを建ててしまったようなものである。「ニート」をめぐる議論は、「パラサイトシングル」論や「社会的引きこもり」論、あるいは教育万能主義的な言説に「ただ乗り」する形で盛り上がった。それゆえ、当初の定義とはまったく違う方向に飛んでしまい、本来の意味とはかけ離れた「ニート」言説の横行まで許してしまっている。我々にはそのような状況をしっかりと見据え、「ニート」問題の視座を本来あるべき就業の問題として捉えなおすことこそが求められているのである。 | 「ニート」という言葉は、単に仕事もしていなければ教育も受けていない若年層、と言う定義を超えて、現代社会の、あるいは若年層の「気分」として認知されるようになっている。そして、そのように認知されることによって、社会的な解決を失い、あるいは社会構造の問題を隠蔽され、最少年の「内面」の問題とみなされてるようになった。本来であれば、「ニート」と言う存在の中で、どのような特徴の人がどれほどいるのか、と言うことを定量化すること、そしてそれらを生み出す社会構造を、「社会が若者を甘えさせている」といった認識を超えて検証するところで、やっと議論の入り口に立つ。しかし我が国において爆発的に増大した「ニート」論は、そのような認識の入り口に立たないまま、幻想のような言説だけが盛り上がりを見せてしまった。いわば、基礎を作らないままに高層ビルを建ててしまったようなものである。「ニート」をめぐる議論は、「パラサイトシングル」論や「社会的引きこもり」論、あるいは教育万能主義的な言説に「ただ乗り」する形で盛り上がった。それゆえ、当初の定義とはまったく違う方向に飛んでしまい、本来の意味とはかけ離れた「ニート」言説の横行まで許してしまっている。我々にはそのような状況をしっかりと見据え、「ニート」問題の視座を本来あるべき就業の問題として捉えなおすことこそが求められているのである。 | ||
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「ニート」って言うな 本田 由紀 (著), 内藤 朝雄 (著), 後藤 和智 (著) 光文社新書 | 「ニート」って言うな 本田 由紀 (著), 内藤 朝雄 (著), 後藤 和智 (著) 光文社新書 | ||
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%88 | http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%88 |
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概要
「ニート」という言葉について考えてみる。「ニート」とは元はイギリスで生まれた。イギリスでは、16~18歳のことをさし、失業者を含むが、日本はそれを含まない。日本のニートでは、「求職型」と「非求職型」「非希望型」に分かれている。もともとニートとは「働く意欲がない若者」というイメージが強かったのである。しかし、本当は「働きたいのではなく、働けないのだ」というのが、ほんとうのところである。実態としては、「非希望型」の人々はこの10年間まったく増えていない。それよりも増えているのは、「求職型」の人々であり、本来は失業者やフリーターと呼ばれる人たちである。
ニートの実態
では、誰が本当に支援を必要としているのだろうか?まずは、不活発な子どもたちである。いわゆる引きこもりの子達である。彼らへの支援は、就労そのものへの支援よりも、もっと根底から、自己回復を手助けするような取り組みが必要になってくるのである。次に、「不安定層」である。彼らは就業意欲のある無業者である。彼らの増加の原因としては、学校と提携して企業に入ってから人材を育てていった社会の「学校経由のシステム」で企業が人材を集めることをしてしまったためである。そして、最近ではその制度が衰退してきてしまったために、社会的にどうしてよいのかわからず、このような事態を招いてしまったのである。これを解決していくためには、若者が自分自身の手で職業への道を切り開いてゆくことを可能な限り支援する体制を手厚く整備することが、一刻も早く必要なのである。私たちは、「ニート論」という奇妙な幻影に惑わされず、目を開いて現実を見つめ、例え困難でも新しい社会像を構想し実現していかなければならない。 ニートはその存在自体で青少年に悪影響を及ぼしてしまった。メディアは「子どもが凶悪化した」「子どもがおかしくなった」などの報道を誇張して行い、映像メディアは報道をいっそう過激化し、親たちは自分の子どもが報道されているような子にならないかと不安になってしまう。インターネットの普及も情報があふれすぎて、子どもたちに悪影響をもたらしている。そして、ニート論はいつの間にか労働と教育を「人間の条件」とみなすような世論が拡大した可能性を示唆している。そして、この条件を満たしていないと「プチ人間以下」とみなされて、個人の尊厳を奪われて、脱人間化されるところまで、日本社会が転がり落ちていく可能性がある。このように、青少年ネガティブ・キャンペーンは、若者対策とすれば何でもありの状況になってきた。奴隷的な強制労働や、戎厳令のような夜間外出禁止や、道徳警察が市民の交際に暴力で入り込むと言ったことに繋がってしまう危険を持っている。また、景気の動向や産業構造の変化などのよって割を食った人たちは、まずもって経済の領域で救済すべきです。にもかかわらず、ありもしない教育問題、つまり教育によって改善すべき生活態度の問題としてニート問題がでっち上げられ、あたかも教育に取り組むことによって彼らが救済可能であるかのごとき幻想が支配的になってきた。
私たちが行うこと
「ニート」という言葉は、単に仕事もしていなければ教育も受けていない若年層、と言う定義を超えて、現代社会の、あるいは若年層の「気分」として認知されるようになっている。そして、そのように認知されることによって、社会的な解決を失い、あるいは社会構造の問題を隠蔽され、最少年の「内面」の問題とみなされてるようになった。本来であれば、「ニート」と言う存在の中で、どのような特徴の人がどれほどいるのか、と言うことを定量化すること、そしてそれらを生み出す社会構造を、「社会が若者を甘えさせている」といった認識を超えて検証するところで、やっと議論の入り口に立つ。しかし我が国において爆発的に増大した「ニート」論は、そのような認識の入り口に立たないまま、幻想のような言説だけが盛り上がりを見せてしまった。いわば、基礎を作らないままに高層ビルを建ててしまったようなものである。「ニート」をめぐる議論は、「パラサイトシングル」論や「社会的引きこもり」論、あるいは教育万能主義的な言説に「ただ乗り」する形で盛り上がった。それゆえ、当初の定義とはまったく違う方向に飛んでしまい、本来の意味とはかけ離れた「ニート」言説の横行まで許してしまっている。我々にはそのような状況をしっかりと見据え、「ニート」問題の視座を本来あるべき就業の問題として捉えなおすことこそが求められているのである。
参考文献
「ニート」って言うな 本田 由紀 (著), 内藤 朝雄 (著), 後藤 和智 (著) 光文社新書