アウシュヴィッツ強制収容所
出典: Jinkawiki
2009年1月27日 (火) 14:11の版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
最新版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) |
||
1 行 | 1 行 | ||
- | '''アウシュヴィッツ強制収容所''' | + | == アウシュヴィッツ強制収容所 == |
- | ---- | ||
ナチスが建設した収容所である。ヒトラーはユダヤ人を絶滅させようと考え、そのために建てられた施設である。1940年建設。収容されたのはユダヤ人だけではなく、政治犯や精神障害者、身体障害者なども含まれている。 | ナチスが建設した収容所である。ヒトラーはユダヤ人を絶滅させようと考え、そのために建てられた施設である。1940年建設。収容されたのはユダヤ人だけではなく、政治犯や精神障害者、身体障害者なども含まれている。 | ||
強制収容所はアウシュヴィッツ(現・オシフィエンチム)だけではなく、収容人数の増加によりアウシュヴィッツ強制収容所から2㎞離れた所にビルケナウ強制収容所が作られた。アウシュヴィッツは収容棟が28、ビルケナウには300以上もあった。 | 強制収容所はアウシュヴィッツ(現・オシフィエンチム)だけではなく、収容人数の増加によりアウシュヴィッツ強制収容所から2㎞離れた所にビルケナウ強制収容所が作られた。アウシュヴィッツは収容棟が28、ビルケナウには300以上もあった。 | ||
16 行 | 15 行 | ||
- | '''今、ドイツ政府の試み''' | ||
- | ---- | + | == ドイツ政府の試み == |
+ | |||
ドイツ政府は、アウシュヴィッツ以外の理由も含めナチスに殺された600万人といわれる数のユダヤ人のための追悼モニュメントが第二次世界大戦の終結から60年目にあたる2005年に日本円にして約40憶5000万円の費用と6年の歳月を費やして建設した。首都ベルリンの華やいだ観光名所から南に5分程度歩いた場所にある。1万9000平方メートルの敷地に、まるで黒い棺のように見える大きな石の立方体2700個が覆い尽くしている。そんな一見不気味なモニュメントである。日本でいうところの銀座4丁目か有楽町、永田町に相当する場所にこのモニュメントがある。ドイツ政府の歴史認識と過去に対決する姿勢が表れている。黒い石板の列は「ナチスの犯罪を忘れず、若い世代に語り継いでいく」というドイツ人の決意表明ともいえる。 | ドイツ政府は、アウシュヴィッツ以外の理由も含めナチスに殺された600万人といわれる数のユダヤ人のための追悼モニュメントが第二次世界大戦の終結から60年目にあたる2005年に日本円にして約40憶5000万円の費用と6年の歳月を費やして建設した。首都ベルリンの華やいだ観光名所から南に5分程度歩いた場所にある。1万9000平方メートルの敷地に、まるで黒い棺のように見える大きな石の立方体2700個が覆い尽くしている。そんな一見不気味なモニュメントである。日本でいうところの銀座4丁目か有楽町、永田町に相当する場所にこのモニュメントがある。ドイツ政府の歴史認識と過去に対決する姿勢が表れている。黒い石板の列は「ナチスの犯罪を忘れず、若い世代に語り継いでいく」というドイツ人の決意表明ともいえる。 | ||
25 行 | 24 行 | ||
- | '''ドイツの歴史教育''' | ||
- | ---- | + | == ドイツの歴史教育 == |
+ | |||
歴史の授業は「暗記」ではなく「討論」が中心。事実を正確に暗記するだけでは不十分で、生徒が歴史的な事実をどのように分析し、評価するか、そして自分の意見を述べることが重視される。歴史の授業を通じて、若者たちにナチスの犯罪と取り組ませることは、「過去との対決」の中でも最も重要な部分の一つである。こうした教育法の結果、大半のドイツ市民の間には、ナチスの思想や軍国主義、武力による紛争解決を嫌悪し、平和を愛する心が深く根付いている。2003年の米軍のイラク侵攻にドイツ人が強く反対した背景にも歴史教育の影響がある。 | 歴史の授業は「暗記」ではなく「討論」が中心。事実を正確に暗記するだけでは不十分で、生徒が歴史的な事実をどのように分析し、評価するか、そして自分の意見を述べることが重視される。歴史の授業を通じて、若者たちにナチスの犯罪と取り組ませることは、「過去との対決」の中でも最も重要な部分の一つである。こうした教育法の結果、大半のドイツ市民の間には、ナチスの思想や軍国主義、武力による紛争解決を嫌悪し、平和を愛する心が深く根付いている。2003年の米軍のイラク侵攻にドイツ人が強く反対した背景にも歴史教育の影響がある。 | ||
- | '''補足''' | ||
- | ---- | + | == 補足 == |
+ | |||
アウシュヴィッツにまつわる残虐な話はたくさん残っており、その証拠とされる証言や実際に残された遺品なども発見されている。 | アウシュヴィッツにまつわる残虐な話はたくさん残っており、その証拠とされる証言や実際に残された遺品なども発見されている。 | ||
しかし、アウシュヴィッツで大量虐殺が行われたことに関して疑問をもち、研究している人たちもいる。 | しかし、アウシュヴィッツで大量虐殺が行われたことに関して疑問をもち、研究している人たちもいる。 | ||
46 行 | 45 行 | ||
関連:アンネ・フランク『アンネの日記』、ヴィクトール・フランクル『夜と霧』、ロゴセラピー | 関連:アンネ・フランク『アンネの日記』、ヴィクトール・フランクル『夜と霧』、ロゴセラピー | ||
+ | |||
+ | |||
+ | |||
+ | == 参考文献 == | ||
+ | |||
+ | ドイツは過去とどう向き合ってきたか(熊谷徹,高文研) | ||
+ | |||
+ | アウシュヴィッツと知識人(E・トラヴェルソ,宇京賴三訳,岩波書店) |
最新版
目次 |
アウシュヴィッツ強制収容所
ナチスが建設した収容所である。ヒトラーはユダヤ人を絶滅させようと考え、そのために建てられた施設である。1940年建設。収容されたのはユダヤ人だけではなく、政治犯や精神障害者、身体障害者なども含まれている。 強制収容所はアウシュヴィッツ(現・オシフィエンチム)だけではなく、収容人数の増加によりアウシュヴィッツ強制収容所から2㎞離れた所にビルケナウ強制収容所が作られた。アウシュヴィッツは収容棟が28、ビルケナウには300以上もあった。 ユネスコにより1979年「負の世界遺産」に認定される。
この収容所に入れられた人の数は150万人、そして、その約9割の人が命を落としたといわれていれる。 かの有名なアウシュヴィッツのガス室では、チクロンBという毒によって処刑が行われたとされており、実際チクロンBの入っていた缶が大量に発見されている。 収容所内は、囚人たちの健康や衛生に対して全く配慮をしていないつくりである。 労働に適さない人は“選別”され、処刑された。その方法は、ガス室送りであったり、銃殺も行われていた。 死体を焼却した際に出る脂で石鹸を作ったり骨を肥料にしたり、切り落とした髪の毛で布を編んだという。 囚人として収容されると腕に管理番号を刺青され、その写真も残っているが、選別をされ、管理番号が打たれる前にガス室に送られ処刑された人もいたとされ、実際の人数はわからない。 また、収容所内で亡くなった方の死因は病死や餓死も多い。 人々の反抗を最小限度に抑えるためにアウシュヴィッツへの移送の際には「東部地域での労働作業」と説明し、ガス室に追い込むときにも、「今からシャワーを浴びてもらう」とうそをつき続けた。これほど悪質で規模の大きな犯罪はほかに例がないという。
ドイツ政府の試み
ドイツ政府は、アウシュヴィッツ以外の理由も含めナチスに殺された600万人といわれる数のユダヤ人のための追悼モニュメントが第二次世界大戦の終結から60年目にあたる2005年に日本円にして約40憶5000万円の費用と6年の歳月を費やして建設した。首都ベルリンの華やいだ観光名所から南に5分程度歩いた場所にある。1万9000平方メートルの敷地に、まるで黒い棺のように見える大きな石の立方体2700個が覆い尽くしている。そんな一見不気味なモニュメントである。日本でいうところの銀座4丁目か有楽町、永田町に相当する場所にこのモニュメントがある。ドイツ政府の歴史認識と過去に対決する姿勢が表れている。黒い石板の列は「ナチスの犯罪を忘れず、若い世代に語り継いでいく」というドイツ人の決意表明ともいえる。
教育現場でも、もう二度とこのような過ちを繰り返さないために、ナチスが権力を掌握した過程や原因、戦争の歴史を詳しく取り上げ、ドイツ人が加害者だった事実を強調して教える。子供には残酷すぎるのではないかと思われるほど生々しい写真や証言が教科書に記してある。
ドイツの歴史教育
歴史の授業は「暗記」ではなく「討論」が中心。事実を正確に暗記するだけでは不十分で、生徒が歴史的な事実をどのように分析し、評価するか、そして自分の意見を述べることが重視される。歴史の授業を通じて、若者たちにナチスの犯罪と取り組ませることは、「過去との対決」の中でも最も重要な部分の一つである。こうした教育法の結果、大半のドイツ市民の間には、ナチスの思想や軍国主義、武力による紛争解決を嫌悪し、平和を愛する心が深く根付いている。2003年の米軍のイラク侵攻にドイツ人が強く反対した背景にも歴史教育の影響がある。
補足
アウシュヴィッツにまつわる残虐な話はたくさん残っており、その証拠とされる証言や実際に残された遺品なども発見されている。 しかし、アウシュヴィッツで大量虐殺が行われたことに関して疑問をもち、研究している人たちもいる。 強制収容所の設備では、100万人を超える人の死体を処分することはできない、また、政治的な問題から証言を強要された人もいた、その証言をする代わりに命が助かった、など諸説本も出版されている。
しかし、忌わしき収容所が存在していたことには変わりがない。
その中で亡くなった人がいたことにも変わりはなく、これから先このような歴史が繰り返されないように建物は現在公開されており、誰でもが訪れることができるようになっている。
関連:アンネ・フランク『アンネの日記』、ヴィクトール・フランクル『夜と霧』、ロゴセラピー
参考文献
ドイツは過去とどう向き合ってきたか(熊谷徹,高文研)
アウシュヴィッツと知識人(E・トラヴェルソ,宇京賴三訳,岩波書店)