スターリン

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2008年10月23日 (木) 13:33の版
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 29年にはトロツキーを国外追放、そのたの党内右派を指導部から追放した。反対派追放は29年末のスターリン生誕50周年でピークに達し、党官僚層が政治的比重を高め、党内の自由な雰囲気も消えた。また、「文化革命」のもとで、農業・歴史学の分野にも介入したが農業集団化の極度な難航や強引な穀物調達は広範囲に飢饉をもたらして党内外に不満を生み、旧反対派だけでなく、忠実なスターリン派の党員や指導者のなかからも書記長の更迭を求める動きがうまれ、34年の第17回党大会では書記の一人に選ばれたにすぎなかった。しかし、同じ書記のキーロフが暗殺されて以後、再び権力をもつようになり、36年には最も民主的といわれた「スターリン憲法」を制定した。  29年にはトロツキーを国外追放、そのたの党内右派を指導部から追放した。反対派追放は29年末のスターリン生誕50周年でピークに達し、党官僚層が政治的比重を高め、党内の自由な雰囲気も消えた。また、「文化革命」のもとで、農業・歴史学の分野にも介入したが農業集団化の極度な難航や強引な穀物調達は広範囲に飢饉をもたらして党内外に不満を生み、旧反対派だけでなく、忠実なスターリン派の党員や指導者のなかからも書記長の更迭を求める動きがうまれ、34年の第17回党大会では書記の一人に選ばれたにすぎなかった。しかし、同じ書記のキーロフが暗殺されて以後、再び権力をもつようになり、36年には最も民主的といわれた「スターリン憲法」を制定した。
- ナチス・ドイツの台頭や国際緊張が高まり、39年8月ドイツとの不可侵条約を結び、41年5月には人民委員会議長となるが、ドイツ軍の侵攻の可能性を信じず、これが同年6月以降の緒戦での敗北の大きな原因となった。ナチスに対する国民的な抵抗で第2次大戦が終結に向かうと、スターリンはヤルタ会談などにおいてF.ルーズベルト、チャーチルとならんで戦後の国際秩序の形成に一役を演じた。また、戦後の冷戦が厳しくなるなかで、ソ連・東欧でのスターリン主義的支配を強化した。しかし49年のレニングラード事件、53年の医師団陰謀事件の直後の53年3月5日にソヴィエト史は「雪どけ」とスターリン批判の時代に向かう。+ ナチス・ドイツの台頭や国際緊張が高まり、39年8月ドイツとの不可侵条約を結び、41年5月には人民委員会議長となるが、ドイツ軍の侵攻の可能性を信じず、これが同年6月以降の緒戦での敗北の大きな原因となった。ナチスに対する国民的な抵抗で第2次大戦が終結に向かうと、スターリンは米英ソの首脳陣らで開催されたヤルタ会談(1945年2月4日から11日までクリミア半島で開催された)などにおいてF.ルーズベルト、チャーチルとならんで戦後の国際秩序の形成に一役を演じた。また、戦後の冷戦が厳しくなるなかで、ソ連・東欧でのスターリン主義的支配を強化した。しかし49年のレニングラード事件、53年の医師団陰謀事件の直後の53年3月5日にソヴィエト史は「雪どけ」とスターリン批判の時代に向かう。
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 +参考文献
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 +川端 香男里・佐藤 経明・和田 春樹, 2004, 「[新版]ロシアを知る事典」, 平凡社
 +高原 孝生 「東欧を知る事典」 平凡社

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スターリン(Iosif Vissarionovich Stalin,1879-1953)

 ロシア共産党の指導者、政治家。ソヴィエト社会主義体制の基礎を築き、スターリン主義を体現した人物として、その評価が現代史の大きな問題の一つとされている人物。

 1879年(1878年説もある)グルジアに生まれ、チフリス(現トビリシ)の神学校に入学した。在学中、マルクス主義のグループに加わり、1901年に社会労働党チフリス委員会の一員となった。17年の二月革命後は一時臨時政府を条件付きで支持したが、その立場を捨て、レーニンの「四月テーゼ」を支持して忠実な信奉者となった。十月革命後は民族人民委員になるだけでなく、党・政府・軍隊での組織的任務にあたった。1919年には党中央委員会政治局員、組織局員に選出され、同世代で赤軍の創始者であるトロツキーと軍事面の指導をめぐって対立した。内戦期からネップ(新経済政策)初期にかけてトロツキーなどの反対派と対立した。その後、彼の本領である地味な組織の指導者としての特徴が評価され、22年に新たに設けられた書記長の地位に就いた。しかし、レーニンはその晩年、グルジア問題でのスターリンの指導に疑問を感じ、彼を書記長から解任することを決意した。スターリンはこれに対し、ジノヴィエフ・カーメネフらと組んでレーニンが支持を得ようとするトロツキーらを「新航路論争」で失脚させた。

 レーニンの死(1924年1月)後、スターリンはレーニン崇拝を促進し、その思想を「レーニン主義」として教義化した。24年以降は一国社会主義論を唱え、さらに25年末には工業化よりも農民との和解を重視したネップを推進した。28年初めの穀物調達危機に際して、非常措置を強化し、29年末にはクラーク(富農)全滅政策へと発展していくこととなった。1928年10月から開始された第1次五カ年計画では、重工業に重点を置き、それまでのネップの枠組みからの離脱をはかった。

 29年にはトロツキーを国外追放、そのたの党内右派を指導部から追放した。反対派追放は29年末のスターリン生誕50周年でピークに達し、党官僚層が政治的比重を高め、党内の自由な雰囲気も消えた。また、「文化革命」のもとで、農業・歴史学の分野にも介入したが農業集団化の極度な難航や強引な穀物調達は広範囲に飢饉をもたらして党内外に不満を生み、旧反対派だけでなく、忠実なスターリン派の党員や指導者のなかからも書記長の更迭を求める動きがうまれ、34年の第17回党大会では書記の一人に選ばれたにすぎなかった。しかし、同じ書記のキーロフが暗殺されて以後、再び権力をもつようになり、36年には最も民主的といわれた「スターリン憲法」を制定した。

 ナチス・ドイツの台頭や国際緊張が高まり、39年8月ドイツとの不可侵条約を結び、41年5月には人民委員会議長となるが、ドイツ軍の侵攻の可能性を信じず、これが同年6月以降の緒戦での敗北の大きな原因となった。ナチスに対する国民的な抵抗で第2次大戦が終結に向かうと、スターリンは米英ソの首脳陣らで開催されたヤルタ会談(1945年2月4日から11日までクリミア半島で開催された)などにおいてF.ルーズベルト、チャーチルとならんで戦後の国際秩序の形成に一役を演じた。また、戦後の冷戦が厳しくなるなかで、ソ連・東欧でのスターリン主義的支配を強化した。しかし49年のレニングラード事件、53年の医師団陰謀事件の直後の53年3月5日にソヴィエト史は「雪どけ」とスターリン批判の時代に向かう。


参考文献

川端 香男里・佐藤 経明・和田 春樹, 2004, 「[新版]ロシアを知る事典」, 平凡社 高原 孝生 「東欧を知る事典」 平凡社


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