レーニン

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レーニン(Vladimir Ilich Lenin, 1870~1924) レーニン(Vladimir Ilich Lenin, 1870~1924)
-ロシア革命の指導者であり、ソ連社会主義の創設者。+ソ連の政治家。ロシア革命の指導者であり、ソ連社会主義の創設者。1893年よりペテルブルクのマルクス主義グループを指導し、ナロドニキや合法的マルクス主義を批判した。
 中学卒業の年、兄アレクサンドルが皇帝暗殺未遂事件の主犯として処刑されたことに強い衝撃を受け、カザン大学に入学したものの、学生運動に加わり退学処分となった。謹慎中、自分も革命家の道を進むことを決意し、マルクス主義の本を読み始めた。弁護士補として働くようになると、マルクス主義の青年サークルに所属し、首都ペテルブルクに出ると、そこのマルクス主義者の仲間入りをした。ナロードニキ批判のパンフレット(1894)で頭角をあらわし、ペテルブルグ労働者階級解放闘争同盟の全身に属した。しかし、95年に逮捕され、97年に東シベリアへ流刑された。そのときの仕事が「ロシアにおける資本主義の発達」である。刑期が終わり、1903年、ロシア社会民主労働党の第2回大会で組織論をめぐってマルトフと激突し、自派をボリシェヴィキとして糾合した。1905年の改革の中で、「プロレタリアートと農民の独裁革命」を目標として掲げたが、自党が権力をとる考えはなかった。「十月勅書」公布後、ロシアへ帰国したが、ふたたび亡命を余儀なくされた。  中学卒業の年、兄アレクサンドルが皇帝暗殺未遂事件の主犯として処刑されたことに強い衝撃を受け、カザン大学に入学したものの、学生運動に加わり退学処分となった。謹慎中、自分も革命家の道を進むことを決意し、マルクス主義の本を読み始めた。弁護士補として働くようになると、マルクス主義の青年サークルに所属し、首都ペテルブルクに出ると、そこのマルクス主義者の仲間入りをした。ナロードニキ批判のパンフレット(1894)で頭角をあらわし、ペテルブルグ労働者階級解放闘争同盟の全身に属した。しかし、95年に逮捕され、97年に東シベリアへ流刑された。そのときの仕事が「ロシアにおける資本主義の発達」である。刑期が終わり、1903年、ロシア社会民主労働党の第2回大会で組織論をめぐってマルトフと激突し、自派をボリシェヴィキとして糾合した。1905年の改革の中で、「プロレタリアートと農民の独裁革命」を目標として掲げたが、自党が権力をとる考えはなかった。「十月勅書」公布後、ロシアへ帰国したが、ふたたび亡命を余儀なくされた。
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参考文献 参考文献
-+・川端 香男里 佐藤 経明 和田 春樹, 2004, 「ロシアを知る事典」 平凡社
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 +・京大西洋史辞典編纂会編 「新編 西洋史辞典 改訂増補」 東京創元者

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レーニン(Vladimir Ilich Lenin, 1870~1924)

ソ連の政治家。ロシア革命の指導者であり、ソ連社会主義の創設者。1893年よりペテルブルクのマルクス主義グループを指導し、ナロドニキや合法的マルクス主義を批判した。

 中学卒業の年、兄アレクサンドルが皇帝暗殺未遂事件の主犯として処刑されたことに強い衝撃を受け、カザン大学に入学したものの、学生運動に加わり退学処分となった。謹慎中、自分も革命家の道を進むことを決意し、マルクス主義の本を読み始めた。弁護士補として働くようになると、マルクス主義の青年サークルに所属し、首都ペテルブルクに出ると、そこのマルクス主義者の仲間入りをした。ナロードニキ批判のパンフレット(1894)で頭角をあらわし、ペテルブルグ労働者階級解放闘争同盟の全身に属した。しかし、95年に逮捕され、97年に東シベリアへ流刑された。そのときの仕事が「ロシアにおける資本主義の発達」である。刑期が終わり、1903年、ロシア社会民主労働党の第2回大会で組織論をめぐってマルトフと激突し、自派をボリシェヴィキとして糾合した。1905年の改革の中で、「プロレタリアートと農民の独裁革命」を目標として掲げたが、自党が権力をとる考えはなかった。「十月勅書」公布後、ロシアへ帰国したが、ふたたび亡命を余儀なくされた。

 第1次世界大戦の勃発に不意を打たれた彼は、直観的にロシアの敗戦は「最小の悪」という方針を示して対処したが、戦争の根源、各国社会民主党が祖国防衛策をとった根源をつかむべく、帝国主義の研究に没頭した。この研究が「資本主義の最高の段階としての帝国主義」(「帝国主義論」)に結実し、戦争を支持した社会主義者とはいっさい協力しないとして、来るべき革命では自党が権力をめざすとの考えを抱くにいたった。また、戦時体制経済の動きの中に社会主義の前提をみていた。1917年に二月革命がおこったときにはスイスにいて、4月に帰国した。ソヴィエトの多数派となり、権力をめざすという「四月テーゼ」を出し、全党をその方向に立たせることに成功した。ペトログラードの労働者・兵士の武装デモに対する政府の弾圧がおこなわれた七月事件後、レーニンは地下にもぐり、潜伏中に「国家と革命」を書いた(1917)。十月革命ではついに臨時政府を倒し、第2回ソヴィエト大会で人民委員会議議長に就任した。権力掌握後は、権力基盤の拡大や憲法制定会議の解散、ブレスト・リトフスク条約や食糧調達などの問題で党内に厳しい意見対立がおこったが、レーニンはつねに自らの立場を押し通すことに成功した。心を弱らせたら、パリ・コミューンの敗北を繰り返すことになると考えていたとされる。唯一の同盟者、左派エスエル党とも分裂し、軍事的に対決したあとで、本格的に内戦、外国の干渉戦(対ソ干渉戦争)が始まったが、レーニンはトロツキーの能力を十分に発揮させるなど指導力を発揮して内戦を勝ち抜いた。1920年の農民反乱などを契機としてネップ(新経済政策)への転換を図った。

 1922年10月、ソ連邦の形成についての決定に自らの考えを盛り込んだが、その直後に脳梗塞の発作をおこした。病中、民族問題における大ロシア排外主義の現れをきびしく戒め、スターリンを党書記長のポストから解任することを求める「遺書」を起草した。24年1月21日に死去。遺骸は永久保存措置をほどこされ、赤の広場のレーニン廟に安置された。

 ペレストロイカの中でレーニンの批判も始まったが、ソ連終焉後はレーニン否定論が行われている。


参考文献

・川端 香男里 佐藤 経明 和田 春樹, 2004, 「ロシアを知る事典」 平凡社

・京大西洋史辞典編纂会編 「新編 西洋史辞典 改訂増補」 東京創元者


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