ニューディール政策

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2009年1月17日 (土) 23:17の版
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ケインズ(1883~1946)は、イギリスの経済学者である。世界恐慌に対して、それまでの経済学が有効な解決策を見出せない中、政府が国民経済に積極的に関与すべきと、修正資本主義(混合経済)を主張した。 ケインズ(1883~1946)は、イギリスの経済学者である。世界恐慌に対して、それまでの経済学が有効な解決策を見出せない中、政府が国民経済に積極的に関与すべきと、修正資本主義(混合経済)を主張した。
供給は需要によって限定される。失業をなくすには政府が積極的に有効需要を創り出すべきである、とケインズは述べている。 供給は需要によって限定される。失業をなくすには政府が積極的に有効需要を創り出すべきである、とケインズは述べている。
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 +第一次世界大戦後の1929年秋、ニューヨーク株式市場の大暴落を敬意としておこった経済恐慌は瞬く間に世界恐慌へと発展した。この世界恐慌は帝国主義段階の資本主義の矛盾によっておこった恐慌であり、規模的に見てもこれまでの恐慌からみても比べ物にならない規模である。
 + こうした世界恐慌はアメリカにも多大な影響を及ぼした。アメリカ資本を揺るがし、1932年までに工業生産は半減、失業者は1500万人にものぼった。そして恐慌対策費が増加し、租税収入は激減していく。
 +恐慌下の大統領であったハーバート・フーヴァーは、部分的な恐慌政策をとるのみにとどまった。フーヴァーは金本位制(金を通貨価値の基準とする制度のことで、中央銀行が発行した紙幣と同額の金を常に保管し、金と紙幣との兌換を保証するというもの)という枠組みを絶対なものとして見ていた。そこから均衡財政主義が必然化し、連邦政府による公共事業や救済事業、あるいは公開市場操作なども十分に行われないまま、国民の窮乏感は高まっていった。
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 +ルーズベルトは、試せる理論は何でも試すという姿勢のもの(プラグマティズム)で、さまざまな見地から景気回復とそれに必要な政策に取り組んでいった。アーヴイング・フィッシャーらのリフレーション(インフレーション状態になるように財政・金融を調節していくこと、景気回復のために行われる通貨膨張政策)の理論、ウォレンらの「国内の金量を増やすことによって物価引き下げが可能となる」とする理論に基づいて、金本位制離脱・金買い上げ、ドルの切り下げがおこなわれた。同時に失業者に対する救済政策をとった。
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 +農業面では、農業保護策である農業調整法(AAA)のもとで農産物減反=価格支持政策が初めて本格的に試みられ、NIRAと異なってこの政策は定着の方向へと向かっていった。そして1935年の、改革色のより一層強くなった「第二次ニューディール」によって、広汎な下層中産階級、および老齢者の不満にこたえる形で連邦の社会保障策がアメリカでは初めて連邦の政策として採用され労働者は全国労働関係法によって団結権・団体交渉権・ストライキ権よりなる労働三権を国家に保障させることによって格段にそその社会的地位を高めていった。
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・農業調整法(AAA,1933.5) ・農業調整法(AAA,1933.5)
- …過剰農産物を政府ファ買い上げて、農産物価格の下落を調整+ …過剰農産物を政府が買い上げて、農産物価格の下落を調整
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・ソビエト連邦の承認 ・ソビエト連邦の承認
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 +鵜木奎治郎編著(1992)アメリカ新研究 学文社
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 +林敏彦著(1992)大恐慌のアメリカ 岩波新書
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 +嘉治元郎編(1992)アメリカの経済―輝きの翳り 弘文堂

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ニューディール政策

ニューディール政策は、1933~36年の間に、アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領によって行われた政策のことである。 世界恐慌によりアメリカ経済が停滞する中で、ルーズベルトは政府が積極的に経済に介入することにより、不況からの脱出を図ろうとした。1933年にアメリカの失業率は25%に達していたといわれている。ルーズベルトは1933年3月4日に大統領に就任すると、議会に働きかけ景気回復や雇用確保の新政策を審議させて、最初の100日間でこれらを制定させた。この政策は、第二次世界大戦後、ほかの先進国もおこなったため、経済に大きな影響を与えた。

ニューディール政策の背景にあるのが、ケインズ理論である。 ケインズ(1883~1946)は、イギリスの経済学者である。世界恐慌に対して、それまでの経済学が有効な解決策を見出せない中、政府が国民経済に積極的に関与すべきと、修正資本主義(混合経済)を主張した。 供給は需要によって限定される。失業をなくすには政府が積極的に有効需要を創り出すべきである、とケインズは述べている。

第一次世界大戦後の1929年秋、ニューヨーク株式市場の大暴落を敬意としておこった経済恐慌は瞬く間に世界恐慌へと発展した。この世界恐慌は帝国主義段階の資本主義の矛盾によっておこった恐慌であり、規模的に見てもこれまでの恐慌からみても比べ物にならない規模である。  こうした世界恐慌はアメリカにも多大な影響を及ぼした。アメリカ資本を揺るがし、1932年までに工業生産は半減、失業者は1500万人にものぼった。そして恐慌対策費が増加し、租税収入は激減していく。 恐慌下の大統領であったハーバート・フーヴァーは、部分的な恐慌政策をとるのみにとどまった。フーヴァーは金本位制(金を通貨価値の基準とする制度のことで、中央銀行が発行した紙幣と同額の金を常に保管し、金と紙幣との兌換を保証するというもの)という枠組みを絶対なものとして見ていた。そこから均衡財政主義が必然化し、連邦政府による公共事業や救済事業、あるいは公開市場操作なども十分に行われないまま、国民の窮乏感は高まっていった。

ルーズベルトは、試せる理論は何でも試すという姿勢のもの(プラグマティズム)で、さまざまな見地から景気回復とそれに必要な政策に取り組んでいった。アーヴイング・フィッシャーらのリフレーション(インフレーション状態になるように財政・金融を調節していくこと、景気回復のために行われる通貨膨張政策)の理論、ウォレンらの「国内の金量を増やすことによって物価引き下げが可能となる」とする理論に基づいて、金本位制離脱・金買い上げ、ドルの切り下げがおこなわれた。同時に失業者に対する救済政策をとった。

農業面では、農業保護策である農業調整法(AAA)のもとで農産物減反=価格支持政策が初めて本格的に試みられ、NIRAと異なってこの政策は定着の方向へと向かっていった。そして1935年の、改革色のより一層強くなった「第二次ニューディール」によって、広汎な下層中産階級、および老齢者の不満にこたえる形で連邦の社会保障策がアメリカでは初めて連邦の政策として採用され労働者は全国労働関係法によって団結権・団体交渉権・ストライキ権よりなる労働三権を国家に保障させることによって格段にそその社会的地位を高めていった。


<具体的な政策内容>

[経済復興]

・全国産業復興法(NIRA,1933.6)

 …政府による産業統制と労働条件改善を規定

・農業調整法(AAA,1933.5)

 …過剰農産物を政府が買い上げて、農産物価格の下落を調整


[社会保障]

・テネシー渓谷開発公社(TVA,1933.5)

 …政府企業によるテネシー渓谷の総合開発。

  失業者の救済と民間企業の電力独占を規制。

・ワグナー法(全国労働関係法、1935.7)

 …NIRAの違憲判決を受けて成立した。

  労働者の団結権・団体交渉権を認めたもの。 

・社会保障法(1935,8)

 連邦政府による老齢年金、州政府による失業保険・公的扶助制度


[外交]

・善隣外交

 …中南米諸国のとの関係改善

・ソビエト連邦の承認


鵜木奎治郎編著(1992)アメリカ新研究 学文社

林敏彦著(1992)大恐慌のアメリカ 岩波新書

嘉治元郎編(1992)アメリカの経済―輝きの翳り 弘文堂


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