小野妹子

出典: Jinkawiki

(版間での差分)
2009年1月27日 (火) 16:25の版
Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録)

← 前の差分へ
最新版
Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録)

3 行 3 行
推古朝の官人である。生没年不詳であるとされているが、生まれ年は西暦570年~590年の間と推測される。また、西暦669年6月30日永眠説がある。 推古朝の官人である。生没年不詳であるとされているが、生まれ年は西暦570年~590年の間と推測される。また、西暦669年6月30日永眠説がある。
近江国滋賀郡小野村(現、滋賀県滋賀郡志賀町)を本拠とし、和珥・春日氏の同族であり、歌人の小野小町、能書家の小野道風は小野妹子と同族である。また、小野毛人は子、毛野は孫にあたる。 近江国滋賀郡小野村(現、滋賀県滋賀郡志賀町)を本拠とし、和珥・春日氏の同族であり、歌人の小野小町、能書家の小野道風は小野妹子と同族である。また、小野毛人は子、毛野は孫にあたる。
 +また、小野妹子は華道の祖とされることもある。
 +
9 行 11 行
小野氏の本拠地は近江であり、朝廷のある大和(奈良)とは少し離れており、その一族にいた妹子は当時は全くの無名であった。だが、その優秀さをいち早く見抜いた聖徳太子によって、遣隋使の大役を任された。 小野氏の本拠地は近江であり、朝廷のある大和(奈良)とは少し離れており、その一族にいた妹子は当時は全くの無名であった。だが、その優秀さをいち早く見抜いた聖徳太子によって、遣隋使の大役を任された。
-607年(推古15)遣隋使として中国に渡った。冠位は大礼。隋では蘇因高と呼ばれた。この時、当時の隋皇帝・煬帝に太子から預かった国書(「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる国交樹立を請う書)を渡し、煬帝から大いに怒りを買った。一年間ほど隋に留め置かれた後、ようやく答礼使の裴世清と共に帰国した。妹子はこの時、煬帝から国書を授かっていたのだが、帰国後に天子に奏上した際には、帰国途中に朝鮮半島の百済で紛失(奪われた)したと言った。国書の紛失は大罪であるが、なぜか妹子は何の処罰も受けなかった。これには幾つかの考え方があり、煬帝の国書が天子及び太子にとって不都合な内容であったため、なくしたことにしたという「気を利かせた説」や、煬帝の激高を目の当たりにした妹子が、朝廷では紛失したと偽り、太子だけには返書を見せ、妹子の心中を察した太子が処罰を行わなかったというものである。+607年(推古15)遣隋使として中国に渡った。冠位は大礼。隋では蘇因高と呼ばれた。この時、当時の隋皇帝・煬帝に太子から預かった国書(「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる国交樹立を請う書)を渡し、煬帝から大いに怒りを買った。一年間ほど隋に留め置かれた後、608年にようやく答礼使の裴世清と共に帰国した。妹子はこの時、煬帝から国書を授かっていたのだが、帰国後に天子に奏上した際には、帰国途中に朝鮮半島の百済で紛失(奪われた)したと言った。国書の紛失は大罪であるが、なぜか妹子は何の処罰も受けなかった。これには幾つかの考え方があり、煬帝の国書が天子及び太子にとって不都合な内容であったため、なくしたことにしたという「気を利かせた説」や、煬帝の激高を目の当たりにした妹子が、朝廷では紛失したと偽り、太子だけには返書を見せ、妹子の心中を察した太子が処罰を行わなかったというものである。
 +同年、裴世清らの帰国の際に、「日本書紀」によれば「東天皇啓白西皇帝」の国書をたずさえ、改めて遣隋使に任命され、裴世清と共に再び隋に渡った。その時の小使は吉士雄成、通事は鞍作福利で、高向玄理・南淵請安・僧旻ら留学生・学問僧8人が随行した。この留学生らは、それから30年間も中国に留まり、帰国後は大化の改新で活躍することになる。一方妹子は、翌609年帰国した。その後の業績は明らかではないが、冠位は大徳にまで昇った。
 + 
 +遣隋使の派遣は「日本書紀」によれば、計6回である。                                                                         600年が初回で、607年が小野妹子が煬帝に国書を渡した回。
 +608年に2回、この時は隋の裴世清とともに小野妹子も再度渡海しているが、高向玄理や南淵請安、僧・旻などの留学生も渡海。中国文化の特色を勉強して、帰国してから、大化の改新後の日本の文化の発展に貢献したとされる。他に610年と614年に1回ずつ派遣されたと言われている。ただし、派遣回数には諸説ある。
 + 
 + 
 + 
 + 
 +'''・小野妹子の墓'''
 + 
 +現在、妹子の墓とされる場所が二カ所ある。大阪府南河内郡太子町山田には、科長神社の南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる楕円状の小さな塚がある。100段の石段を昇った山の中腹にあり、眺めがよく、推古天皇陵や二子山古墳が真下によく見える。”いもこ”の名で土地の人に親しまれている桜や紅葉の名所である。滋賀県志賀町小野水明にある唐臼山古墳も妹子の墓と伝えられている。
 + 
 + 
 + 
 + 
 + 
 + 
 +・参考文献
 + 
 +・日本史大事典第1巻  下中弘   1994  平凡社 
 + 
 +・http://www.ononoimoko.org/ononoimoko.html
 +・http://www.bell.jp/pancho/travel/taisi-siseki/kofun/imoko_no_haka.htm
-翌608年、隋使の裴世清らを伴って帰国。帰途、隋の国書を百済人に奪われたと報告したが、国書の内容が朝廷の期待するものと異なっていたので、自ら破棄したものともいわれる。同年、裴世清らの帰国の際に、「日本書紀」によれば「東天皇啓白西皇帝」の国書をたずさえ、大使として再び隋にわたった。小使は吉士雄成、通事は鞍作福利で、高向玄理・南淵請安・僧旻ら留学生・学問僧8人が随行した。翌609年帰国。その後の業績は明らかではないが、冠位は大徳にまで昇った。+・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%A6%B9%E5%AD%90

最新版

・小野妹子とは

推古朝の官人である。生没年不詳であるとされているが、生まれ年は西暦570年~590年の間と推測される。また、西暦669年6月30日永眠説がある。 近江国滋賀郡小野村(現、滋賀県滋賀郡志賀町)を本拠とし、和珥・春日氏の同族であり、歌人の小野小町、能書家の小野道風は小野妹子と同族である。また、小野毛人は子、毛野は孫にあたる。 また、小野妹子は華道の祖とされることもある。


・遣隋使として

小野氏の本拠地は近江であり、朝廷のある大和(奈良)とは少し離れており、その一族にいた妹子は当時は全くの無名であった。だが、その優秀さをいち早く見抜いた聖徳太子によって、遣隋使の大役を任された。

607年(推古15)遣隋使として中国に渡った。冠位は大礼。隋では蘇因高と呼ばれた。この時、当時の隋皇帝・煬帝に太子から預かった国書(「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる国交樹立を請う書)を渡し、煬帝から大いに怒りを買った。一年間ほど隋に留め置かれた後、608年にようやく答礼使の裴世清と共に帰国した。妹子はこの時、煬帝から国書を授かっていたのだが、帰国後に天子に奏上した際には、帰国途中に朝鮮半島の百済で紛失(奪われた)したと言った。国書の紛失は大罪であるが、なぜか妹子は何の処罰も受けなかった。これには幾つかの考え方があり、煬帝の国書が天子及び太子にとって不都合な内容であったため、なくしたことにしたという「気を利かせた説」や、煬帝の激高を目の当たりにした妹子が、朝廷では紛失したと偽り、太子だけには返書を見せ、妹子の心中を察した太子が処罰を行わなかったというものである。 同年、裴世清らの帰国の際に、「日本書紀」によれば「東天皇啓白西皇帝」の国書をたずさえ、改めて遣隋使に任命され、裴世清と共に再び隋に渡った。その時の小使は吉士雄成、通事は鞍作福利で、高向玄理・南淵請安・僧旻ら留学生・学問僧8人が随行した。この留学生らは、それから30年間も中国に留まり、帰国後は大化の改新で活躍することになる。一方妹子は、翌609年帰国した。その後の業績は明らかではないが、冠位は大徳にまで昇った。

遣隋使の派遣は「日本書紀」によれば、計6回である。                                                                         600年が初回で、607年が小野妹子が煬帝に国書を渡した回。 608年に2回、この時は隋の裴世清とともに小野妹子も再度渡海しているが、高向玄理や南淵請安、僧・旻などの留学生も渡海。中国文化の特色を勉強して、帰国してから、大化の改新後の日本の文化の発展に貢献したとされる。他に610年と614年に1回ずつ派遣されたと言われている。ただし、派遣回数には諸説ある。



・小野妹子の墓

現在、妹子の墓とされる場所が二カ所ある。大阪府南河内郡太子町山田には、科長神社の南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる楕円状の小さな塚がある。100段の石段を昇った山の中腹にあり、眺めがよく、推古天皇陵や二子山古墳が真下によく見える。”いもこ”の名で土地の人に親しまれている桜や紅葉の名所である。滋賀県志賀町小野水明にある唐臼山古墳も妹子の墓と伝えられている。




・参考文献

・日本史大事典第1巻  下中弘   1994  平凡社 

http://www.ononoimoko.org/ononoimoko.html

http://www.bell.jp/pancho/travel/taisi-siseki/kofun/imoko_no_haka.htm

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%A6%B9%E5%AD%90


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成