平家物語

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2008年12月7日 (日) 23:37の版
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 鎌倉前期の軍記物語。信濃前司藤原行長が東国生まれの生仏と協力して作ったとの説が有力。平家の興亡を記した流麗・重厚な文を盲目の琵琶法師が平曲として語り継ぎ民間に普及。  鎌倉前期の軍記物語。信濃前司藤原行長が東国生まれの生仏と協力して作ったとの説が有力。平家の興亡を記した流麗・重厚な文を盲目の琵琶法師が平曲として語り継ぎ民間に普及。
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 保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。和漢混淆文で書かれた代表的作品であり、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く人口に膾炙している。  保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。和漢混淆文で書かれた代表的作品であり、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く人口に膾炙している。
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 平家物語という題名は後年の呼称であり、当初は『保元物語』や『平治物語』と同様に、合戦が本格化した治承(元号)年間より『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたと推測されているが、確証はない。正確な成立時期は分かっていないものの、1240(仁治元)年に藤原定家によって書写された『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあるため、それ以前に成立したと考えられている。しかし、「治承物語」が現存の平家物語にあたるかという問題も残り、確実ということはできない。少なくとも延慶本の本奥書、1309(延慶2)年以前には成立していたものと思われる。ただし、現存の延慶本が、そのまま奥書の時代の形をとどめているとは言えないというのが一般的見解である。  平家物語という題名は後年の呼称であり、当初は『保元物語』や『平治物語』と同様に、合戦が本格化した治承(元号)年間より『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたと推測されているが、確証はない。正確な成立時期は分かっていないものの、1240(仁治元)年に藤原定家によって書写された『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあるため、それ以前に成立したと考えられている。しかし、「治承物語」が現存の平家物語にあたるかという問題も残り、確実ということはできない。少なくとも延慶本の本奥書、1309(延慶2)年以前には成立していたものと思われる。ただし、現存の延慶本が、そのまま奥書の時代の形をとどめているとは言えないというのが一般的見解である。
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-引用+参考資料
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E
- 「日本史B用語集」 全国歴史教育研究協議会【編】 山川出版社 + 日本史B用語集 全国歴史教育研究協議会【編】 山川出版社
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 鎌倉前期の軍記物語。信濃前司藤原行長が東国生まれの生仏と協力して作ったとの説が有力。平家の興亡を記した流麗・重厚な文を盲目の琵琶法師が平曲として語り継ぎ民間に普及。

 保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。和漢混淆文で書かれた代表的作品であり、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く人口に膾炙している。

 平家物語という題名は後年の呼称であり、当初は『保元物語』や『平治物語』と同様に、合戦が本格化した治承(元号)年間より『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたと推測されているが、確証はない。正確な成立時期は分かっていないものの、1240(仁治元)年に藤原定家によって書写された『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあるため、それ以前に成立したと考えられている。しかし、「治承物語」が現存の平家物語にあたるかという問題も残り、確実ということはできない。少なくとも延慶本の本奥書、1309(延慶2)年以前には成立していたものと思われる。ただし、現存の延慶本が、そのまま奥書の時代の形をとどめているとは言えないというのが一般的見解である。

 信濃前司行長なる人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫である下野守藤原行長ではないかと推定されている。また、『尊卑分脈』や『醍醐雑抄』『平家物語補闕剣巻』では、やはり顕時の孫にあたる葉室時長(藤原氏)が作者であるとされている。その他に、親鸞の高弟で法然門下の西仏という僧とする説がある。この西仏は、大谷本願寺や康楽寺(長野県篠ノ井塩崎)の縁起によると、信濃国の名族滋野氏の流れを汲む海野小太郎幸親の息子で幸長(または通広)とされており、京の院御所で勧学院文章博士となった後に出家、その後紆余曲折を経て大夫坊覚明の名で木曽義仲の軍師として、この平家物語にも登場する人物である。しかしながらいずれも確証があることではなく、何より軍記物語の生成・成長過程を考えると、特定の作者を想定することが有益とは言えないであろう。


参考資料

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E

 日本史B用語集 全国歴史教育研究協議会【編】 山川出版社

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