徳川家治

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-'''徳川 家治'''('''とくがわ いえはる'''、元文2年5月22日 (旧暦)|5月22日(1737年6月20日) - 天明6年8月25日 (旧暦)|8月25日(1786年9月17日)、将軍在任1760年 - 1786年)は、日本の武士・江戸時代の徳川幕府第10代征夷大将軍|将軍である。第9代将軍徳川家重|家重の長男で、母は側室の梅渓通条の娘(至心院、幸子、お幸の方)。幼名は竹千代。+'''徳川 家治'''('''とくがわ いえはる'''、元文2年5月22日 (旧暦)(1737年6月20日) - 天明6年8月25日 (旧暦)(1786年9月17日)、将軍在任1760年 - 1786年)は、日本の武士・江戸時代の徳川幕府第10代征夷大将軍である。第9代将軍徳川家重の長男で、母は側室の梅渓通条の娘(至心院、幸子、お幸の方)。幼名は竹千代。
== 経歴 == == 経歴 ==
-江戸城に生まれる。幼少時よりその聡明さから、八代将軍であった祖父の徳川吉宗|吉宗の期待を一心に受け寵愛されて育った。家治は学芸の才能に恵まれ書画を得意とし、宝暦10年(1760年)に将軍職を継承し、父の家重の遺言に従い田沼意次を側用人に重用し、老中の松平武元らと共に政治に励んでいたが、意次が老中になると、政治を田沼意次|意次にまかせ好きな将棋などの趣味に没頭することが多く、結局祖父の期待には報えなかった。+江戸城に生まれる。幼少時よりその聡明さから、八代将軍であった祖父の徳川吉宗の期待を一心に受け寵愛されて育った。家治は学芸の才能に恵まれ書画を得意とし、宝暦10年(1760年)に将軍職を継承し、父の家重の遺言に従い田沼意次を側用人に重用し、老中の松平武元らと共に政治に励んでいたが、意次が老中になると、政治を田沼意次にまかせ好きな将棋などの趣味に没頭することが多く、結局祖父の期待には報えなかった。
-意次は印旛沼・手賀沼干拓を実施し、蝦夷地開発や対ロシア貿易を計画するなどを実施する。安永8年(1779年)、家治の世子徳川家基|家基が18歳で急死したため、天明元年(1781年)に一橋家当主徳川治済の長男豊千代(後の第11代将軍徳川家斉|家斉)を自らの養子とした。+意次は印旛沼・手賀沼干拓を実施し、蝦夷地開発や対ロシア貿易を計画するなどを実施する。安永8年(1779年)、家治の世子徳川家基が18歳で急死したため、天明元年(1781年)に一橋家当主徳川治済の長男豊千代(後の第11代将軍徳川家斉)を自らの養子とした。
-天明6年(1786年)のその死は反田沼派によって直ちには公表されず、田沼が失脚した後の9月8日 (旧暦)|9月8日(新暦9月29日)になって発葬された。また家治は、意次の差し出した薬を飲んだ直後に危篤に陥り死去した。無論、家治を暗殺しても意次に益するところは何一つ無いはずなのだが、それでも意次が毒を盛ったのではないかという噂が流れ、反田沼派の策謀により田沼意次は失脚した。+天明6年(1786年)のその死は反田沼派によって直ちには公表されず、田沼が失脚した後の9月8日 (旧暦)(新暦9月29日)になって発葬された。また家治は、意次の差し出した薬を飲んだ直後に危篤に陥り死去した。無論、家治を暗殺しても意次に益するところは何一つ無いはずなのだが、それでも意次が毒を盛ったのではないかという噂が流れ、反田沼派の策謀により田沼意次は失脚した。
墓所は東京都台東区上野の寛永寺。 墓所は東京都台東区上野の寛永寺。
-==官歴== 
-*寛保元年(1741年) 
-*:8月12日 (旧暦)|8月12日:元服し、家治と名乗る。従二位大納言|権大納言に叙任 
-*宝暦10年(1760年) 
-*:2月4日 (旧暦)|2月4日:右近衛大将を兼任 
-*:9月2日 (旧暦)|9月2日:正二位内大臣に昇叙転任し、右近衛大将の兼任如元。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下 
-*安永9年(1780年) 
-*:9月4日 (旧暦)|9月4日:右大臣に転任。右近衛大将の兼任如元 
-*天明6年(1786年) 
-*:9月8日 (旧暦)|9月8日:薨去 
-*:9月22日 (旧暦)|9月22日:贈正一位太政大臣。 
== 人物 == == 人物 ==
家治は新しい将棋用語を考案し(例えば右上からいろはにほへとちりぬるをなどと呼んだ)、著作も著している。対局中に難局の場面で、待ったをして、駒を元に戻したとも伝えられている。 家治は新しい将棋用語を考案し(例えば右上からいろはにほへとちりぬるをなどと呼んだ)、著作も著している。対局中に難局の場面で、待ったをして、駒を元に戻したとも伝えられている。
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== エピソード == == エピソード ==
*将軍の起床は6時となっていたが、家治も50歳近くなり早く目が覚めることが多くなった。そんな時は、座敷の中を音を立てないよう行ったり来たりして6時になるのをひたすら待っていた。厠に行く時も当番の御小納戸役を起こさないように抜き足差し足で廊下を歩いたという。 *将軍の起床は6時となっていたが、家治も50歳近くなり早く目が覚めることが多くなった。そんな時は、座敷の中を音を立てないよう行ったり来たりして6時になるのをひたすら待っていた。厠に行く時も当番の御小納戸役を起こさないように抜き足差し足で廊下を歩いたという。
*家治は、祖父である吉宗のように名君たらんと、いつも意識し、食べ物にしても変わったものが出ると「これは先々代様も食べられたものか。」と確認するほどだったという。 *家治は、祖父である吉宗のように名君たらんと、いつも意識し、食べ物にしても変わったものが出ると「これは先々代様も食べられたものか。」と確認するほどだったという。
*ある激しい雨の日、家治は、ひとりの近習が空を見上げため息をついているのを目にした。別の者にため息のわけを聞いたところ、「あの者は貧しく、家が朽ちて雨漏りがしており、今ごろ親が苦心していることを思っているのでしょう。」と答えた。更に家治はいくらあれば直せるのか聞くと「百両もあれば直せると思います。」と答えた。家治はひそかに、ため息をついていた近習を呼ぶと「孝を尽くせ。」と百両を渡したという。 *ある激しい雨の日、家治は、ひとりの近習が空を見上げため息をついているのを目にした。別の者にため息のわけを聞いたところ、「あの者は貧しく、家が朽ちて雨漏りがしており、今ごろ親が苦心していることを思っているのでしょう。」と答えた。更に家治はいくらあれば直せるのか聞くと「百両もあれば直せると思います。」と答えた。家治はひそかに、ため息をついていた近習を呼ぶと「孝を尽くせ。」と百両を渡したという。
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 +== 官職位階履歴 ==
 +*寛保元年(1741年)8月12日 (旧暦)元服し、家治と名乗る。従二位大納言|権大納言に叙任
 +*宝暦10年(1760年)2月4日 (旧暦)右近衛大将を兼任。 9月2日 (旧暦)正二位内大臣に昇叙転任し、右近衛大将の兼任如元。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下
 +*安永9年(1780年)9月4日 (旧暦)右大臣に転任。右近衛大将の兼任如元
 +*天明6年(1786年)9月8日 (旧暦)薨去。 9月22日 (旧暦)贈正一位太政大臣。
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== 参考文献== == 参考文献==
 +* 中江克己 『図説徳川将軍の「お家事情」』 (PHP研究所)  2007
 +* 岡谷 繁実 (著) 安藤 英男  『徳川将軍の人間学 』
 +* 篠田 達明 『徳川将軍家十五代のカルテ』 (新潮新書) 2005
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 + (H.O)

最新版

徳川 家治とくがわ いえはる、元文2年5月22日 (旧暦)(1737年6月20日) - 天明6年8月25日 (旧暦)(1786年9月17日)、将軍在任1760年 - 1786年)は、日本の武士・江戸時代の徳川幕府第10代征夷大将軍である。第9代将軍徳川家重の長男で、母は側室の梅渓通条の娘(至心院、幸子、お幸の方)。幼名は竹千代。

目次

経歴

江戸城に生まれる。幼少時よりその聡明さから、八代将軍であった祖父の徳川吉宗の期待を一心に受け寵愛されて育った。家治は学芸の才能に恵まれ書画を得意とし、宝暦10年(1760年)に将軍職を継承し、父の家重の遺言に従い田沼意次を側用人に重用し、老中の松平武元らと共に政治に励んでいたが、意次が老中になると、政治を田沼意次にまかせ好きな将棋などの趣味に没頭することが多く、結局祖父の期待には報えなかった。

意次は印旛沼・手賀沼干拓を実施し、蝦夷地開発や対ロシア貿易を計画するなどを実施する。安永8年(1779年)、家治の世子徳川家基が18歳で急死したため、天明元年(1781年)に一橋家当主徳川治済の長男豊千代(後の第11代将軍徳川家斉)を自らの養子とした。

天明6年(1786年)のその死は反田沼派によって直ちには公表されず、田沼が失脚した後の9月8日 (旧暦)(新暦9月29日)になって発葬された。また家治は、意次の差し出した薬を飲んだ直後に危篤に陥り死去した。無論、家治を暗殺しても意次に益するところは何一つ無いはずなのだが、それでも意次が毒を盛ったのではないかという噂が流れ、反田沼派の策謀により田沼意次は失脚した。

墓所は東京都台東区上野の寛永寺。


人物

家治は新しい将棋用語を考案し(例えば右上からいろはにほへとちりぬるをなどと呼んだ)、著作も著している。対局中に難局の場面で、待ったをして、駒を元に戻したとも伝えられている。

エピソード

  • 将軍の起床は6時となっていたが、家治も50歳近くなり早く目が覚めることが多くなった。そんな時は、座敷の中を音を立てないよう行ったり来たりして6時になるのをひたすら待っていた。厠に行く時も当番の御小納戸役を起こさないように抜き足差し足で廊下を歩いたという。
  • 家治は、祖父である吉宗のように名君たらんと、いつも意識し、食べ物にしても変わったものが出ると「これは先々代様も食べられたものか。」と確認するほどだったという。
  • ある激しい雨の日、家治は、ひとりの近習が空を見上げため息をついているのを目にした。別の者にため息のわけを聞いたところ、「あの者は貧しく、家が朽ちて雨漏りがしており、今ごろ親が苦心していることを思っているのでしょう。」と答えた。更に家治はいくらあれば直せるのか聞くと「百両もあれば直せると思います。」と答えた。家治はひそかに、ため息をついていた近習を呼ぶと「孝を尽くせ。」と百両を渡したという。

官職位階履歴

  • 寛保元年(1741年)8月12日 (旧暦)元服し、家治と名乗る。従二位大納言|権大納言に叙任
  • 宝暦10年(1760年)2月4日 (旧暦)右近衛大将を兼任。 9月2日 (旧暦)正二位内大臣に昇叙転任し、右近衛大将の兼任如元。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下
  • 安永9年(1780年)9月4日 (旧暦)右大臣に転任。右近衛大将の兼任如元
  • 天明6年(1786年)9月8日 (旧暦)薨去。 9月22日 (旧暦)贈正一位太政大臣。

参考文献

  • 中江克己 『図説徳川将軍の「お家事情」』 (PHP研究所)  2007
  • 岡谷 繁実 (著) 安藤 英男  『徳川将軍の人間学 』
  • 篠田 達明 『徳川将軍家十五代のカルテ』 (新潮新書) 2005


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