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2009年1月30日 (金) 09:38の版
Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録)
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「三宅島人口」 「三宅島人口」
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総人口2900人 総人口2900人
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世帯数1749世帯 世帯数1749世帯
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男性人口1542人 女性1358人 男性人口1542人 女性1358人
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平均年齢 総数54.23歳 男性51.52歳 女性57.30歳 平均年齢 総数54.23歳 男性51.52歳 女性57.30歳
「位置・気候」 「位置・気候」
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東京から南南西に約180km、伊豆諸島のほぼ真ん中に位置 東京から南南西に約180km、伊豆諸島のほぼ真ん中に位置
緯度:約34°経度:約139 緯度:約34°経度:約139
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【月別平均気温】 【月別平均気温】
- 1月:9.7℃ 2月:9.4℃ 3月:11.6度 4月:15.5度 6月:21.6℃ 7月:24.8℃+ 
 +1月:9.7℃ 2月:9.4℃ 3月:11.6度 4月:15.5度 6月:21.6℃ 7月:24.8℃
 8月:26.1℃ 9月:24.1℃ 10月:20.2℃ 11月:16.4℃ 12月:12.2℃  8月:26.1℃ 9月:24.1℃ 10月:20.2℃ 11月:16.4℃ 12月:12.2℃
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「産業」 「産業」
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農業 耕地面積 95ha   農業 耕地面積 95ha  
内訳:普通畑:93ha 樹園地:2ha 内訳:普通畑:93ha 樹園地:2ha
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主な作物と収穫量 主な作物と収穫量
アシタバ 赤芽イモ キヌサヤエンドウ サツマイモ  アシタバ 赤芽イモ キヌサヤエンドウ サツマイモ 
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林業 森林総面積 4,056ha 林業 森林総面積 4,056ha
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内訳:東京都管理8路線 38,194m  三宅村2路線 6,505m 内訳:東京都管理8路線 38,194m  三宅村2路線 6,505m
   
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水産業 三宅島漁業協同組合員数1,074人 水産業 三宅島漁業協同組合員数1,074人
正組合員155人 准組合員919人 正組合員155人 准組合員919人
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主な漁獲物と漁獲量(17年度水揚) 主な漁獲物と漁獲量(17年度水揚)
 +
かつお類 27,083kg マグロ類 35,896kg キンメダイ 9,615kg  かつお類 27,083kg マグロ類 35,896kg キンメダイ 9,615kg 
メダイ 4,813kg アオダイ 2,873kg カンパチ 2,516kg  メダイ 4,813kg アオダイ 2,873kg カンパチ 2,516kg 
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天草 4,177kg トサカノリ 37,971kg 天草 4,177kg トサカノリ 37,971kg
   
 +
登録漁船123隻  登録漁船123隻 
内訳:1t未満41隻 1~3t未満38隻 3~5t未満12隻  内訳:1t未満41隻 1~3t未満38隻 3~5t未満12隻 
   5~10t未満19隻 10~15t未満7隻 15~20t未満6隻    5~10t未満19隻 10~15t未満7隻 15~20t未満6隻
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商工業 三宅島商工業者戸数299 商工業 三宅島商工業者戸数299
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「歴史」 「歴史」
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三宅島は「歴史の島」と言われている。現在でも多くの伝説や神話が残っており、 その歴史は古く、中世以前に開村された島であると、三宅島開島の物語「三宅記」からは読みとることができる。 三宅島は「歴史の島」と言われている。現在でも多くの伝説や神話が残っており、 その歴史は古く、中世以前に開村された島であると、三宅島開島の物語「三宅記」からは読みとることができる。
「名前の由来」 「名前の由来」
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三宅島の名前の由来には、いくつかの説がある。島のかたちを家三つ並んでいるように見立てて三宅島とした「家三つ説」、 式内社が12社もあることからお宮を象徴とした島名「宮家島」を起源とする「式内社説」、「南方海島志」に記されているように火山の噴火が多いことから島名「御焼島」を起源とする「御焼島説」など、その歴史が古く、文献により説が異なることから、ひとつに絞ることはできず、三宅島にはいくつもの名前の由来が残されている。 三宅島の名前の由来には、いくつかの説がある。島のかたちを家三つ並んでいるように見立てて三宅島とした「家三つ説」、 式内社が12社もあることからお宮を象徴とした島名「宮家島」を起源とする「式内社説」、「南方海島志」に記されているように火山の噴火が多いことから島名「御焼島」を起源とする「御焼島説」など、その歴史が古く、文献により説が異なることから、ひとつに絞ることはできず、三宅島にはいくつもの名前の由来が残されている。
「伝説と神話」 「伝説と神話」
 +
三宅島には、神々を主人公としたいくつもの伝説や神話が残されており、この伝説や神話の多くは、「三宅記」に記述されている。「三宅記」の著者が僧侶や修験道の行者(山伏)と推測されていることから、神道を背景として神々を主人公とした多数の伝説や神話が残っているのだろう。 三宅島には、神々を主人公としたいくつもの伝説や神話が残されており、この伝説や神話の多くは、「三宅記」に記述されている。「三宅記」の著者が僧侶や修験道の行者(山伏)と推測されていることから、神道を背景として神々を主人公とした多数の伝説や神話が残っているのだろう。
「壬生家」 「壬生家」
 +
平安時代初期、来島したとされる壬生氏は、三島大明神を奉り、大明神の代官として集団来島し、初代壬生御館から始まり、その後島長・神官としておよそ1000年にわたり三宅島の祭政を統治してきた。壬生氏は三宅島の神々を三島大明神の后神・子神に再編し、代表神に雄山噴火を祀る富賀神社(とがじんじゃ)を仕立て、石の築地を作るなどした。また壬生氏は海上交通の能力を持ち、 伊豆国との交易や行政的な連絡を行い、その勢力を保持したものとみられている。 平安時代初期、来島したとされる壬生氏は、三島大明神を奉り、大明神の代官として集団来島し、初代壬生御館から始まり、その後島長・神官としておよそ1000年にわたり三宅島の祭政を統治してきた。壬生氏は三宅島の神々を三島大明神の后神・子神に再編し、代表神に雄山噴火を祀る富賀神社(とがじんじゃ)を仕立て、石の築地を作るなどした。また壬生氏は海上交通の能力を持ち、 伊豆国との交易や行政的な連絡を行い、その勢力を保持したものとみられている。
「噴火の歴史」 「噴火の歴史」
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三宅島は古来、伊豆諸島の中で最も噴火の多い島として有名。およそ3000年前に大規模な噴火が起こった形跡があり、雄山山頂のカルデラは、この大噴火によってできたものではないかといわれている。最古の記録として応徳二乙丑年(西暦1085年)に噴火があったことが「壬生家系図」に記されている。また、天武13年(西暦684年)から明治7年までに噴火の回数を13回としている説もありますが、奈良・平安初期頃の記録がなく、実際には噴火した回数はもっと多いと考えられている。 三宅島は古来、伊豆諸島の中で最も噴火の多い島として有名。およそ3000年前に大規模な噴火が起こった形跡があり、雄山山頂のカルデラは、この大噴火によってできたものではないかといわれている。最古の記録として応徳二乙丑年(西暦1085年)に噴火があったことが「壬生家系図」に記されている。また、天武13年(西暦684年)から明治7年までに噴火の回数を13回としている説もありますが、奈良・平安初期頃の記録がなく、実際には噴火した回数はもっと多いと考えられている。
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「三宅島の神社」 「三宅島の神社」
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三宅島には神名帳に記載されているだけで、70社もの神社がある。 現存しながら記載されていないものを含めると100社以上の神社があり、その中でも特に噴火に 関する神社が多く、昔から島民は自然災害を神に信心することで克服してきたことがよくわかる。 静岡県三島市の三島大社の本宮である富賀神社(とがじんじゃ)、 伝説にも登場する三島大明神の3人の后が祀られている御笏神社(おしゃくじんじゃ)、 后神社(きさいじんじゃ)、二宮神社などが代表的な神社として有名。 三宅島には神名帳に記載されているだけで、70社もの神社がある。 現存しながら記載されていないものを含めると100社以上の神社があり、その中でも特に噴火に 関する神社が多く、昔から島民は自然災害を神に信心することで克服してきたことがよくわかる。 静岡県三島市の三島大社の本宮である富賀神社(とがじんじゃ)、 伝説にも登場する三島大明神の3人の后が祀られている御笏神社(おしゃくじんじゃ)、 后神社(きさいじんじゃ)、二宮神社などが代表的な神社として有名。
「流人島としての歴史」 「流人島としての歴史」
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三宅島は江戸時代には他の伊豆諸島の島々とともに、罪人を島流しにする流刑地として使われていた。その数は、明治時代初期までに2300人ものぼると言われている。 三宅島の流人としては、絵師の英一蝶(はなぶさいっちょう)や博徒の小金井小次郎、国学者の竹内式部、 宗教家の井上正鐵(いのうえまさかね)、歌舞伎役者の生島新五郎(いくしましんごろう)など歴史上の有名人も少なくない。  特に江戸時代中期の歌舞伎の人気役者であった生島新五郎と江戸大奥の女中である絵島との密会疑惑を発端とし、大奥の権力争いを背景に江戸中を巻き込んで1000人以上の処分者を出す 大スキャンダルに発展した「絵島・生島事件」は有名で、この事件を題材に「大奥」として2006年に映画化もされた。 三宅島は江戸時代には他の伊豆諸島の島々とともに、罪人を島流しにする流刑地として使われていた。その数は、明治時代初期までに2300人ものぼると言われている。 三宅島の流人としては、絵師の英一蝶(はなぶさいっちょう)や博徒の小金井小次郎、国学者の竹内式部、 宗教家の井上正鐵(いのうえまさかね)、歌舞伎役者の生島新五郎(いくしましんごろう)など歴史上の有名人も少なくない。  特に江戸時代中期の歌舞伎の人気役者であった生島新五郎と江戸大奥の女中である絵島との密会疑惑を発端とし、大奥の権力争いを背景に江戸中を巻き込んで1000人以上の処分者を出す 大スキャンダルに発展した「絵島・生島事件」は有名で、この事件を題材に「大奥」として2006年に映画化もされた。
   
「三宅島観光復興モニュメント」 「三宅島観光復興モニュメント」
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三宅村は平成18年度事業で三宅島観光復興モニュメントのデザインを募集し、平成19年3月に阿古船客待合所前に完成した。 三宅村は平成18年度事業で三宅島観光復興モニュメントのデザインを募集し、平成19年3月に阿古船客待合所前に完成した。
(引用・参考文献) (引用・参考文献)
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三宅島の自然ガイドエコツーリズムで三宅島復興  BIRDER編集部 文一総合出版 三宅島の自然ガイドエコツーリズムで三宅島復興  BIRDER編集部 文一総合出版
三宅島今様流人暮らし 村栄 文芸社 三宅島今様流人暮らし 村栄 文芸社

最新版

「三宅島」

「三宅島人口」

総人口2900人

世帯数1749世帯

男性人口1542人 女性1358人

平均年齢 総数54.23歳 男性51.52歳 女性57.30歳


「位置・気候」

東京から南南西に約180km、伊豆諸島のほぼ真ん中に位置 緯度:約34°経度:約139

温暖多雨な海洋性気候で、年間の平均気温は17.5℃。日最高気温が30℃以上に達する真夏日は、平均で年間9.0日。日最低気温が0℃未満になる冬日は、平均で年間0.7日と、冬は暖かく、夏に涼しい気候。これは三宅島を囲む海が、陸上に比べて温まりにくく冷めにくい性質を持っているからである。

【月別平均気温】   1月:9.7℃ 2月:9.4℃ 3月:11.6度 4月:15.5度 6月:21.6℃ 7月:24.8℃  8月:26.1℃ 9月:24.1℃ 10月:20.2℃ 11月:16.4℃ 12月:12.2℃


「産業」

農業 耕地面積 95ha   内訳:普通畑:93ha 樹園地:2ha

主な作物と収穫量 アシタバ 赤芽イモ キヌサヤエンドウ サツマイモ 


林業 森林総面積 4,056ha 内訳:国有林152ha 村有林1,250ha 私有林2,654ha

林道の総延長44,699m 内訳:東京都管理8路線 38,194m  三宅村2路線 6,505m  


水産業 三宅島漁業協同組合員数1,074人 正組合員155人 准組合員919人


主な漁獲物と漁獲量(17年度水揚)

かつお類 27,083kg マグロ類 35,896kg キンメダイ 9,615kg  メダイ 4,813kg アオダイ 2,873kg カンパチ 2,516kg  タカベ 2,875kg サワラ 2,003kg イセエビ4,916kg 天草 4,177kg トサカノリ 37,971kg  

登録漁船123隻  内訳:1t未満41隻 1~3t未満38隻 3~5t未満12隻     5~10t未満19隻 10~15t未満7隻 15~20t未満6隻


商工業 三宅島商工業者戸数299 建設業44戸 製造業12戸 卸小売業95戸 金融保険業3戸 運輸通信業14戸  電気・ガス・水道業1戸 サービス業127戸 その他3戸 


「歴史」

三宅島は「歴史の島」と言われている。現在でも多くの伝説や神話が残っており、 その歴史は古く、中世以前に開村された島であると、三宅島開島の物語「三宅記」からは読みとることができる。


「名前の由来」

三宅島の名前の由来には、いくつかの説がある。島のかたちを家三つ並んでいるように見立てて三宅島とした「家三つ説」、 式内社が12社もあることからお宮を象徴とした島名「宮家島」を起源とする「式内社説」、「南方海島志」に記されているように火山の噴火が多いことから島名「御焼島」を起源とする「御焼島説」など、その歴史が古く、文献により説が異なることから、ひとつに絞ることはできず、三宅島にはいくつもの名前の由来が残されている。


「伝説と神話」

三宅島には、神々を主人公としたいくつもの伝説や神話が残されており、この伝説や神話の多くは、「三宅記」に記述されている。「三宅記」の著者が僧侶や修験道の行者(山伏)と推測されていることから、神道を背景として神々を主人公とした多数の伝説や神話が残っているのだろう。


「壬生家」

平安時代初期、来島したとされる壬生氏は、三島大明神を奉り、大明神の代官として集団来島し、初代壬生御館から始まり、その後島長・神官としておよそ1000年にわたり三宅島の祭政を統治してきた。壬生氏は三宅島の神々を三島大明神の后神・子神に再編し、代表神に雄山噴火を祀る富賀神社(とがじんじゃ)を仕立て、石の築地を作るなどした。また壬生氏は海上交通の能力を持ち、 伊豆国との交易や行政的な連絡を行い、その勢力を保持したものとみられている。


「噴火の歴史」

三宅島は古来、伊豆諸島の中で最も噴火の多い島として有名。およそ3000年前に大規模な噴火が起こった形跡があり、雄山山頂のカルデラは、この大噴火によってできたものではないかといわれている。最古の記録として応徳二乙丑年(西暦1085年)に噴火があったことが「壬生家系図」に記されている。また、天武13年(西暦684年)から明治7年までに噴火の回数を13回としている説もありますが、奈良・平安初期頃の記録がなく、実際には噴火した回数はもっと多いと考えられている。


「三宅島の神社」

三宅島には神名帳に記載されているだけで、70社もの神社がある。 現存しながら記載されていないものを含めると100社以上の神社があり、その中でも特に噴火に 関する神社が多く、昔から島民は自然災害を神に信心することで克服してきたことがよくわかる。 静岡県三島市の三島大社の本宮である富賀神社(とがじんじゃ)、 伝説にも登場する三島大明神の3人の后が祀られている御笏神社(おしゃくじんじゃ)、 后神社(きさいじんじゃ)、二宮神社などが代表的な神社として有名。


「流人島としての歴史」

三宅島は江戸時代には他の伊豆諸島の島々とともに、罪人を島流しにする流刑地として使われていた。その数は、明治時代初期までに2300人ものぼると言われている。 三宅島の流人としては、絵師の英一蝶(はなぶさいっちょう)や博徒の小金井小次郎、国学者の竹内式部、 宗教家の井上正鐵(いのうえまさかね)、歌舞伎役者の生島新五郎(いくしましんごろう)など歴史上の有名人も少なくない。  特に江戸時代中期の歌舞伎の人気役者であった生島新五郎と江戸大奥の女中である絵島との密会疑惑を発端とし、大奥の権力争いを背景に江戸中を巻き込んで1000人以上の処分者を出す 大スキャンダルに発展した「絵島・生島事件」は有名で、この事件を題材に「大奥」として2006年に映画化もされた。  

「三宅島観光復興モニュメント」

三宅村は平成18年度事業で三宅島観光復興モニュメントのデザインを募集し、平成19年3月に阿古船客待合所前に完成した。


(引用・参考文献)

三宅島の自然ガイドエコツーリズムで三宅島復興  BIRDER編集部 文一総合出版 三宅島今様流人暮らし 村栄 文芸社 三宅島島民たちの一年 三谷彰 岩波書店 http://www.town.miyake.nara.jp/

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