熊襲・隼人

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2009年1月23日 (金) 13:10の版
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九州南部には熊や鳥の隼の字をあてられた人々が住んでいた。記紀には隼人より先に熊襲が登場する。 九州南部には熊や鳥の隼の字をあてられた人々が住んでいた。記紀には隼人より先に熊襲が登場する。
-熊とは肥後の球磨地方、襲は大隅の囎唹地方をさすともいわれている。隼人は薩摩・大隅半島に居住した+肥後国球磨郡(くまぐん。現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国贈於郡(そおぐん。現鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族であり、ヤマト王権への臣従後は、「隼人」として仕えたと言うのが現在の通説である(津田左右吉ら)。なお、隼人研究家の中村明蔵は、球磨地方と贈於地方の考古学的異質性から、熊襲の本拠は、都城地方や贈於地方のみであり、「クマ」は勇猛さを意味する美称であるとの説を唱えている。
-人々である。呼称の違いは征討の時期のズレ=地域差、あるいは服属の有無が反映されている。+また、魏志倭人伝中の狗奴国をクマソの国であるとする説が、内藤湖南、津田左右吉、井上光貞らにより唱えられている。ただし、この説と邪馬台国九州説とは一致するものではない。
-また、記紀では熊襲は朝廷に従わざる者、隼人は服従した者とされ、令制では衛門府に隼人司が+隼人(はやと)とは、日本古代において、薩摩・大隅(現在の鹿児島県)に居住した人々。はやひと(はやびと)、はいととも呼ばれる。呼称の違いは征討の時期のズレ=地域差、あるいは服属の有無が反映されている。
-置かれ宮門警備などにあたっていた。+ヤマト王権の支配下に組み込まれたが、和人とは異なる民族とも言われる。 なお、近世に至って、尚武の気風から、薩摩藩士や鹿児島県の男子を「薩摩隼人(8世紀以降の呼称、それ以前は阿多隼人)」と呼称するが、その祖とされる御家人層などは関東武士が多いなど、古代部族としての隼人との直接の関係は薄い。
 +また、記紀では熊襲は朝廷に従わざる者、隼人は服従した者とされた。服属後もしばしば朝廷に対し反乱を起こし、大隅隼人などは大隅国設置(713年)後にも反乱を起こしたが、隼人の反乱と呼ばれる大規模な反乱が大伴旅人によって征討(721年)された後には完全に服従した。ただし稲作がふるわないこともあり、班田収授法は800年に初めて実施された。
 +古くから畿内に移住させられ、令制では衛門府に隼人司が置かれ宮門警備などにあたっていた。また、芸能、相撲、竹細工などを行うようになった。特に山城国(京都府)南部に多く定住し、大隅隼人の住んだ現在の京田辺市には「大住」の地名が残る。また、言語・文化に関しては、他の地方と大きく異なっていたとされる。特に畿内では、彼らの歌舞による「隼人舞」が有名であった。また平城宮跡では彼らが使ったとされる「隼人楯」が発掘されており、これには独特の逆S字形文様が描かれている。
 +肥前国風土記によると、五島列島にも隼人に似た人々がいたという。また新唐書によると「邪古・波邪・多尼の三小王」がいたというが、波邪は隼人のことであろうとされている。
 +考古学的には、鹿児島県・宮崎県境周辺に地下式横穴墓が分布し、これを隼人と関係づける説もある(隼人全体からすると一部にすぎないと思われる)。
 +日本神話では、海幸彦(火照命または火闌降命)が隼人の阿多君の祖神とされ(海幸山幸)、海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似たのが隼人舞であるという。この説話は、隼人の服属の起源を述べたものとされるが、むしろ説話自体が隼人の説話からとり入れられたものと見られる。説話の類型(大林太良ら)などから、隼人文化はオーストロネシア語系文化であるとの説もあるが、直接的証拠はない。
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参考資料 参考資料

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九州南部には熊や鳥の隼の字をあてられた人々が住んでいた。記紀には隼人より先に熊襲が登場する。 肥後国球磨郡(くまぐん。現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国贈於郡(そおぐん。現鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族であり、ヤマト王権への臣従後は、「隼人」として仕えたと言うのが現在の通説である(津田左右吉ら)。なお、隼人研究家の中村明蔵は、球磨地方と贈於地方の考古学的異質性から、熊襲の本拠は、都城地方や贈於地方のみであり、「クマ」は勇猛さを意味する美称であるとの説を唱えている。 また、魏志倭人伝中の狗奴国をクマソの国であるとする説が、内藤湖南、津田左右吉、井上光貞らにより唱えられている。ただし、この説と邪馬台国九州説とは一致するものではない。 隼人(はやと)とは、日本古代において、薩摩・大隅(現在の鹿児島県)に居住した人々。はやひと(はやびと)、はいととも呼ばれる。呼称の違いは征討の時期のズレ=地域差、あるいは服属の有無が反映されている。 ヤマト王権の支配下に組み込まれたが、和人とは異なる民族とも言われる。 なお、近世に至って、尚武の気風から、薩摩藩士や鹿児島県の男子を「薩摩隼人(8世紀以降の呼称、それ以前は阿多隼人)」と呼称するが、その祖とされる御家人層などは関東武士が多いなど、古代部族としての隼人との直接の関係は薄い。 また、記紀では熊襲は朝廷に従わざる者、隼人は服従した者とされた。服属後もしばしば朝廷に対し反乱を起こし、大隅隼人などは大隅国設置(713年)後にも反乱を起こしたが、隼人の反乱と呼ばれる大規模な反乱が大伴旅人によって征討(721年)された後には完全に服従した。ただし稲作がふるわないこともあり、班田収授法は800年に初めて実施された。 古くから畿内に移住させられ、令制では衛門府に隼人司が置かれ宮門警備などにあたっていた。また、芸能、相撲、竹細工などを行うようになった。特に山城国(京都府)南部に多く定住し、大隅隼人の住んだ現在の京田辺市には「大住」の地名が残る。また、言語・文化に関しては、他の地方と大きく異なっていたとされる。特に畿内では、彼らの歌舞による「隼人舞」が有名であった。また平城宮跡では彼らが使ったとされる「隼人楯」が発掘されており、これには独特の逆S字形文様が描かれている。 肥前国風土記によると、五島列島にも隼人に似た人々がいたという。また新唐書によると「邪古・波邪・多尼の三小王」がいたというが、波邪は隼人のことであろうとされている。 考古学的には、鹿児島県・宮崎県境周辺に地下式横穴墓が分布し、これを隼人と関係づける説もある(隼人全体からすると一部にすぎないと思われる)。 日本神話では、海幸彦(火照命または火闌降命)が隼人の阿多君の祖神とされ(海幸山幸)、海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似たのが隼人舞であるという。この説話は、隼人の服属の起源を述べたものとされるが、むしろ説話自体が隼人の説話からとり入れられたものと見られる。説話の類型(大林太良ら)などから、隼人文化はオーストロネシア語系文化であるとの説もあるが、直接的証拠はない。


参考資料

日本史総覧 星沢哲也

日本史用語集 本郷充

百科事典「ウィキペディア」


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