ポカホンタス

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- ポカホンタス(Pocahontas)は、ヴァージニア地方の初期の歴史における著名な先住アメリカ人(インディアン)の一人で、アルゴンキン・インディアン族の連合体の酋長であったポウハタンの娘である。+ポカホンタス(Pocahontas)は、ヴァージニア地方の初期の歴史における著名な先住アメリカ人(インディアン)の一人で、アルゴンキン・インディアン族の連合体の酋長であったポウハタンの娘である。
- 最初の英国人入植者たちは1607年にヴァージニア地方に上陸し、キャプテン・ジョン・スミスらがインディアンの土地にジェームズタウン植民地を建設した。入植者たちはインディアンから食物を手に入れる必要があったにもかかわらず、文化の違いから両者の対立は続いていた。植民地ができてほどないころに、ジェームズタウンに現れた容姿端麗なポカホンタスはたちまち有名な存在となり、やがて入植者たちとポウハタンとの間の重要な調停者の役割を果たすようになった。1607年12月にポウハタンの部下たちがキャプテン・ジョン・スミスを捕縛してポウハタンのところに連行した。スミスの著した『General History of Virginia』(1624)には、そのときにポカホンタスが父親のポウハタンにスミスの命乞いをして助けてくれなかったならば、殺されていたことだろうと述べられている。しかし、ことの真相は明らかではない。ポカホンタスの命乞いによって、捕えられていたスミスが助けられたことで、不安定なものながら、インディアンたちと入植者たちとの間に、事実上の休戦が成立した。その後、ポカホンタスは足しげくジェームズタウンに現れるようになった。+ 
- 事実上の休戦が成立していたにもかかわらず、両者の間には断続的な抗争が絶えなかった。そこで、1613年にポウハタンに捕えられている入植者たちの安全を確保するため、キャプテン・サミュエル・アーガルは策略を用いてポカホンタスを捕えて人質とした。+== ポカホンタスと入植者たち ==
- 拘束されたポカホンタスは、入植者たちとインディアンたちの間の複雑な関係を立て直すために利用されることとなった。拘束中、ポカホンタスは英語を習い、キリスト教の教えを受ける。+ 
- 1614年にキリスト教の洗礼を受け、ポカホンタスはレベッカという洗礼名を授けられた。その後、ポカホンタスはジョン・ロルフという英国人と出会い、1614年4月に二人の結婚式が執り行われた。ロルフがこの結婚に踏み切った理由は、二人の結婚によってジェームズタウンに平和がもたらされるであろうということを、確信していたからだともいわれている。ポカホンタスは1615年に息子トマスを産み、その翌年にはロルフ一家を乗せた船が12人のインディアンとともに、英国へ向けて出航した。この目的は、ヴァージニア植民会社がポカホンタスの訪英を奇貨として、いっそうの植民地化を促進しようとしていたことによるものである。ポカホンタスは英国王室に紹介され大いに歓迎・歓待された。ジョン・スミスとの感激の再会も果たし、7ヶ月間英国に滞在した。そののち、ロルフはヴァージニアに戻ってタバコ栽培をすることを熱望したが、ヴァージニアに戻るその矢先、ケント州グレーブゼンドでポカホンタスは病をえて、1617年3月21日、23歳前後という若さで死去し、聖ジョージ教会の内陣に埋葬された。+ 最初の英国人入植者たちは1607年にヴァージニア地方に上陸し、キャプテン・ジョン・スミスらがインディアンの土地にジェームズタウン植民地を建設した。入植者たちはインディアンから食物を手に入れる必要があったにもかかわらず、文化の違いから両者の対立は続いていた。植民地ができてほどないころに、ジェームズタウンに現れた容姿端麗なポカホンタスはたちまち有名な存在となり、やがて入植者たちとポウハタンとの間の重要な調停者の役割を果たすようになった。1607年12月にポウハタンの部下たちがキャプテン・ジョン・スミスを捕縛してポウハタンのところに連行した。スミスの著した『General History of Virginia』(1624)には、そのときにポカホンタスが父親のポウハタンにスミスの命乞いをして助けてくれなかったならば、殺されていたことだろうと述べられている。しかし、ことの真相は明らかではない。ポカホンタスの命乞いによって、捕えられていたスミスが助けられたことで、不安定なものながら、インディアンたちと入植者たちとの間に、事実上の休戦が成立した。その後、ポカホンタスは足しげくジェームズタウンに現れるようになった。
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 +== キリスト教との出会い ==
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 + 事実上の休戦が成立していたにもかかわらず、両者の間には断続的な抗争が絶えなかった。そこで、1613年にポウハタンに捕えられている入植者たちの安全を確保するため、キャプテン・サミュエル・アーガルは策略を用いてポカホンタスを捕えて人質とした。
 +拘束されたポカホンタスは、入植者たちとインディアンたちの間の複雑な関係を立て直すために利用されることとなった。拘束中、ポカホンタスは英語を習い、キリスト教の教えを受ける。1614年にキリスト教の洗礼を受け、ポカホンタスはレベッカという洗礼名を授けられた。
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 +== 結婚と英国訪問 ==
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 +その後、ポカホンタスはジョン・ロルフという英国人と出会い、1614年4月に二人の結婚式が執り行われた。ロルフがこの結婚に踏み切った理由は、二人の結婚によってジェームズタウンに平和がもたらされるであろうということを、確信していたからだともいわれている。ポカホンタスは1615年に息子トマスを産み、その翌年にはロルフ一家を乗せた船が12人のインディアンとともに、英国へ向けて出航した。この目的は、ヴァージニア植民会社がポカホンタスの訪英を奇貨として、いっそうの植民地化を促進しようとしていたことによるものである。ポカホンタスは英国王室に紹介され大いに歓迎・歓待された。ジョン・スミスとの感激の再会も果たし、7ヶ月間英国に滞在した。そののち、ロルフはヴァージニアに戻ってタバコ栽培をすることを熱望したが、ヴァージニアに戻るその矢先、ケント州グレーブゼンドでポカホンタスは病をえて、1617年3月21日、23歳前後という若さで死去し、聖ジョージ教会の内陣に埋葬された。
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 +== 参考文献 ==
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 +アメリカ史重要人物101 猿谷要/編 新書館

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ポカホンタス(Pocahontas)は、ヴァージニア地方の初期の歴史における著名な先住アメリカ人(インディアン)の一人で、アルゴンキン・インディアン族の連合体の酋長であったポウハタンの娘である。

目次

ポカホンタスと入植者たち

 最初の英国人入植者たちは1607年にヴァージニア地方に上陸し、キャプテン・ジョン・スミスらがインディアンの土地にジェームズタウン植民地を建設した。入植者たちはインディアンから食物を手に入れる必要があったにもかかわらず、文化の違いから両者の対立は続いていた。植民地ができてほどないころに、ジェームズタウンに現れた容姿端麗なポカホンタスはたちまち有名な存在となり、やがて入植者たちとポウハタンとの間の重要な調停者の役割を果たすようになった。1607年12月にポウハタンの部下たちがキャプテン・ジョン・スミスを捕縛してポウハタンのところに連行した。スミスの著した『General History of Virginia』(1624)には、そのときにポカホンタスが父親のポウハタンにスミスの命乞いをして助けてくれなかったならば、殺されていたことだろうと述べられている。しかし、ことの真相は明らかではない。ポカホンタスの命乞いによって、捕えられていたスミスが助けられたことで、不安定なものながら、インディアンたちと入植者たちとの間に、事実上の休戦が成立した。その後、ポカホンタスは足しげくジェームズタウンに現れるようになった。

キリスト教との出会い

 事実上の休戦が成立していたにもかかわらず、両者の間には断続的な抗争が絶えなかった。そこで、1613年にポウハタンに捕えられている入植者たちの安全を確保するため、キャプテン・サミュエル・アーガルは策略を用いてポカホンタスを捕えて人質とした。 拘束されたポカホンタスは、入植者たちとインディアンたちの間の複雑な関係を立て直すために利用されることとなった。拘束中、ポカホンタスは英語を習い、キリスト教の教えを受ける。1614年にキリスト教の洗礼を受け、ポカホンタスはレベッカという洗礼名を授けられた。

結婚と英国訪問

その後、ポカホンタスはジョン・ロルフという英国人と出会い、1614年4月に二人の結婚式が執り行われた。ロルフがこの結婚に踏み切った理由は、二人の結婚によってジェームズタウンに平和がもたらされるであろうということを、確信していたからだともいわれている。ポカホンタスは1615年に息子トマスを産み、その翌年にはロルフ一家を乗せた船が12人のインディアンとともに、英国へ向けて出航した。この目的は、ヴァージニア植民会社がポカホンタスの訪英を奇貨として、いっそうの植民地化を促進しようとしていたことによるものである。ポカホンタスは英国王室に紹介され大いに歓迎・歓待された。ジョン・スミスとの感激の再会も果たし、7ヶ月間英国に滞在した。そののち、ロルフはヴァージニアに戻ってタバコ栽培をすることを熱望したが、ヴァージニアに戻るその矢先、ケント州グレーブゼンドでポカホンタスは病をえて、1617年3月21日、23歳前後という若さで死去し、聖ジョージ教会の内陣に埋葬された。

参考文献

アメリカ史重要人物101 猿谷要/編 新書館


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