ブラウン判決2
出典: Jinkawiki
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2009年1月31日 (土) 10:44の版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) 次の差分へ → |
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- | 正式にはブラウン対トピーカ市教育委員会事件といい、また人種隔離違憲判決ともよばれる。1954年5月にアメリカ合衆国の連邦最高裁判所が下した、黒人・白人分離問題に関する歴史的判決である。 | + | ブラウン判決はアメリカ合衆国における人種分離政策について、1954年にアメリカ合衆国最高裁判所が行った裁判で、正式にはブラウン対トピーカ市教育委員会裁判といい、また人種隔離違憲判決ともよばれる。 |
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+ | 黒人・白人分離問題に関する歴史的判決である。 | ||
==裁判に至った経緯 == | ==裁判に至った経緯 == | ||
- | ブラウン判決は、1951年、カンザス州のトピーカという街の小学生リンダ・ブラウンの父親オリヴァー・ブラウンという黒人の溶接工が、州の教育委員会を相手取って起こした裁判のことを指す。 | + | ブラウン判決は、1951年、カンザス州のトピーカという街の小学生リンダ・ブラウンの父親オリヴァー・ブラウンというアフリカ系アメリカ人の溶接工が、州の教育委員会を相手取って起こした裁判のことを指す。 |
- | リンダは自宅からわずか7ブロック先の公立小学校に受けいれられず、約1.5キロメートル離れた別の小学校に通うことを余儀なくされていた。リンダが近所の小学校に通えなかったのは、その小学校が白人のための小学校で、黒人である彼女は受け入れられなかったからである。白人のための小学校の校長は、彼女の入学を拒否し、教育委員会はそのことが不当であると申し出た父オリヴァ―の意見を退けた。そのため父は、ついにトピーカ市の教育委員会を訴えた。それが裁判に至った経緯である。 | + | リンダは自宅からわずか7ブロック先の公立小学校に受けいれられず、約1.5キロメートル離れた別の小学校に通うためにスクールバスの停留所まで6ブロック歩き、そこからバスに乗らなくてはいけなかった。リンダが近所の小学校に通えなかったのは、その小学校が白人のための小学校で、黒人である彼女は受け入れられなかったからである。白人のための小学校の校長は、彼女の入学を拒否し、教育委員会はそのことが不当であると申し出た父オリヴァ―の意見を退けた。そのため父は、ついにトピーカ市の教育委員会を訴えた。それが裁判に至った経緯である。 |
この裁判は人種分離の根本を問うものとなったため、簡単に決着はつかず最高裁へと判決が持ち越されることになった。 | この裁判は人種分離の根本を問うものとなったため、簡単に決着はつかず最高裁へと判決が持ち越されることになった。 | ||
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== ブラウン判決以前 == | == ブラウン判決以前 == | ||
- | 南北戦争の後、1863年に憲法修正13条により奴隷制度が廃止され、第14条により法の下での人種差別も許されないことになったが、そうした動きに対し南部の差別主義者たちは新たな法によって対抗した。彼らは「分離すれども平等」という法解釈に基づいて人種隔離を認める法律を次々に成立させ、黒人差別の制度化を図ったのである。 | + | 南北戦争の後、1863年に憲法修正13条により奴隷制度が廃止され、1868年に、すべての者に対する「法律の平等な保護」を定めるアメリカ合衆国憲法修正14条が発行した後も、90年以上にわたり、人種差別は根強く残っていた。第14条により法の下での人種差別も許されないことになったが、そうした動きに対し南部の差別主義者たちは新たな法によって対抗した。彼らは「分離すれども平等」という法解釈に基づいて人種隔離を認める法律を次々に成立させ、黒人差別の制度化を図ったのである。 |
南部を中心とする多くの州では、あらゆる交通機関や公共の建物、トイレ、水飲み場までがその対象となり、旅客列車においても黒人用、白人用の席を分離することが義務づけられ、その区分けを無視するものは逮捕された。 | 南部を中心とする多くの州では、あらゆる交通機関や公共の建物、トイレ、水飲み場までがその対象となり、旅客列車においても黒人用、白人用の席を分離することが義務づけられ、その区分けを無視するものは逮捕された。 | ||
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==ブラウン判決 == | ==ブラウン判決 == | ||
- | 裁判は最高裁まで争われ、1954年5月に、この、人種による公立小学校の分離が違憲であるという判断が下された。 | + | 裁判は最高裁まで争われ、1954年5月17日に、アール・ウォーレン首席裁判官の法定において、満場一致で人種による公立小学校の分離が違憲であるという判断が下された。 |
この判決は、「プレッシー判決」の最高裁判判決以来維持されてきた「分離はしても平等」という法理を明確に退け、「分離された教育施設は本質的に不平等」つまり分離そのものが差別であるとの判断を下した。その判決の時の言葉は「我々は、公共教育の場における”分離すれども平等”の原則は成立しないものと結論する。教育施設を分離させる別学自体が本質的に不平等だからである」というものであった。 | この判決は、「プレッシー判決」の最高裁判判決以来維持されてきた「分離はしても平等」という法理を明確に退け、「分離された教育施設は本質的に不平等」つまり分離そのものが差別であるとの判断を下した。その判決の時の言葉は「我々は、公共教育の場における”分離すれども平等”の原則は成立しないものと結論する。教育施設を分離させる別学自体が本質的に不平等だからである」というものであった。 | ||
分離は合衆国憲法第14条修正のうたう法の平等な保護を奪う、というものであり、判決は、公立学校における黒人・白人共学を実現させる長い道程の出発点となったばかりでなく、人種の分離や隔離そのものを原理的に非とすることにより、合衆国の人種関係改善に向けて画期的な判決となった。 | 分離は合衆国憲法第14条修正のうたう法の平等な保護を奪う、というものであり、判決は、公立学校における黒人・白人共学を実現させる長い道程の出発点となったばかりでなく、人種の分離や隔離そのものを原理的に非とすることにより、合衆国の人種関係改善に向けて画期的な判決となった。 | ||
- | 公民権運動は、この判決を武器に大きく前進したと言われている。 | + | 公民権運動は、この判決によって前進したと言われている。 |
2009年1月31日 (土) 10:44の版
ブラウン判決はアメリカ合衆国における人種分離政策について、1954年にアメリカ合衆国最高裁判所が行った裁判で、正式にはブラウン対トピーカ市教育委員会裁判といい、また人種隔離違憲判決ともよばれる。
黒人・白人分離問題に関する歴史的判決である。
目次 |
裁判に至った経緯
ブラウン判決は、1951年、カンザス州のトピーカという街の小学生リンダ・ブラウンの父親オリヴァー・ブラウンというアフリカ系アメリカ人の溶接工が、州の教育委員会を相手取って起こした裁判のことを指す。
リンダは自宅からわずか7ブロック先の公立小学校に受けいれられず、約1.5キロメートル離れた別の小学校に通うためにスクールバスの停留所まで6ブロック歩き、そこからバスに乗らなくてはいけなかった。リンダが近所の小学校に通えなかったのは、その小学校が白人のための小学校で、黒人である彼女は受け入れられなかったからである。白人のための小学校の校長は、彼女の入学を拒否し、教育委員会はそのことが不当であると申し出た父オリヴァ―の意見を退けた。そのため父は、ついにトピーカ市の教育委員会を訴えた。それが裁判に至った経緯である。
この裁判は人種分離の根本を問うものとなったため、簡単に決着はつかず最高裁へと判決が持ち越されることになった。
ブラウン判決以前
南北戦争の後、1863年に憲法修正13条により奴隷制度が廃止され、1868年に、すべての者に対する「法律の平等な保護」を定めるアメリカ合衆国憲法修正14条が発行した後も、90年以上にわたり、人種差別は根強く残っていた。第14条により法の下での人種差別も許されないことになったが、そうした動きに対し南部の差別主義者たちは新たな法によって対抗した。彼らは「分離すれども平等」という法解釈に基づいて人種隔離を認める法律を次々に成立させ、黒人差別の制度化を図ったのである。
南部を中心とする多くの州では、あらゆる交通機関や公共の建物、トイレ、水飲み場までがその対象となり、旅客列車においても黒人用、白人用の席を分離することが義務づけられ、その区分けを無視するものは逮捕された。
そんな中、1892年6月、ルイジアナ州に住むホーマー・アドルフ・プレッシーという黒人男性がこの法律の違法性を問うため、あえて白人席に座って逮捕された。この裁判を「プレッシー判決」と言う。この裁判は最高裁にまで持ち込まれたが、そこでの判決は「隔離を認める州法は一方の人種を劣等とみなすものではない。従って、憲法第14条に反するものではない」というものであった。その判決で「分離はしても平等」なる法理が打ち出され、施設や設備が平等であれば人種の分離は合憲と判断し、人種の分離に法的根拠を与えることとなり、逆に別人種との同席を強要することの方が違法である、と判断を下した。
そして、この判決は、その後世紀を越えて50年以上有効性を保ち続けることになった。
ブラウン判決
裁判は最高裁まで争われ、1954年5月17日に、アール・ウォーレン首席裁判官の法定において、満場一致で人種による公立小学校の分離が違憲であるという判断が下された。
この判決は、「プレッシー判決」の最高裁判判決以来維持されてきた「分離はしても平等」という法理を明確に退け、「分離された教育施設は本質的に不平等」つまり分離そのものが差別であるとの判断を下した。その判決の時の言葉は「我々は、公共教育の場における”分離すれども平等”の原則は成立しないものと結論する。教育施設を分離させる別学自体が本質的に不平等だからである」というものであった。
分離は合衆国憲法第14条修正のうたう法の平等な保護を奪う、というものであり、判決は、公立学校における黒人・白人共学を実現させる長い道程の出発点となったばかりでなく、人種の分離や隔離そのものを原理的に非とすることにより、合衆国の人種関係改善に向けて画期的な判決となった。 公民権運動は、この判決によって前進したと言われている。
参考
http://www.shidaikyo.or.jp/riihe/research/arcadia/0165.html (日本私立大学協会HP)