カンダハル
出典: Jinkawiki
2009年6月17日 (水) 19:39の版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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- | この項目では、アフガニスタン南部に位置する都市について扱う。 | + | ■名称 |
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+ | アレキサンダーの東方の名であるセカンダルあるいはエスカンダルに由来する。 | ||
■概要 | ■概要 | ||
- | アフガニスタン2番目の都市で、戦争前の1979年の人口は約25万人、今日の約2倍だった。古代カンダハルは紀元前500年まで遡ることができるが、隣村のムンディガク村には紀元前3000年前の青銅器時代から人が住んでおり、古代インダス文明の一部だった。カンダハルは東はボラン峠を越え、シンドそしてアラビア海へ、西はヘラートからイランへと続く古代貿易路の結び目に位置していたため、貿易商の町だった。この街はイランとインドを行き来する交易、美術・工芸品の通過点で、バザールは何世紀にもわたって有名だった。 | + | カンダハルは現在人口50万人弱のアフガニスタン第2の都市である。戦争前の1979年の人口は約25万人であったが、終結後には約1/2にまで落ち込んでいた。国の南部に位置し、南部幹線道路のカブールとヘラートのほぼ真中にある。 |
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+ | 旧市街は約2km x 1.5kmの長方形で、市の中心チャル・スクで交差する4本の大きな通りによって四つの区域に分けられている。以前は、旧市街は高さ30フィートの城壁で囲まれていたが、その城壁は東と南の小さな部分を除いて、市が城壁を越えて拡大するのにともない、1940年代までにほとんど取り壊されてしまった。カンダハルの新市街(シャハル・ナウ)は旧市街の西側にあり、大通りの両側に約2.5kmずつの広がりをもっている。 | ||
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+ | ■歴史 | ||
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+ | アレキサンダー大王の時代からタリバーンの時代まで , 何世紀もの間、カンダハールは歴史的、戦略的に重要な都市であった。 | ||
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+ | 古代カンダハルは紀元前500年まで遡ることができるが、隣村のムンディガク村には紀元前3000年前の青銅器時代から人が住んでおり、古代インダス文明の一部だった。カンダハルは東はボラン峠を越え、シンドそしてアラビア海へ、西はヘラートからイランへと続く古代貿易路の結び目に位置していたため、貿易商の町だった。この街はイランとインドを行き来する交易、美術・工芸品の通過点で、バザールは何世紀にもわたって有名であった。 | ||
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+ | 16、17世紀には、この地を争ってペルシアのサファヴィー帝国とインドのムガル帝国の間で繰り返し戦争が行われた。独立意識の強いカンダハルのアフガニスタン人は、最初はミル・ワイス・ホッタク、後にはアハマド・シャー・ドゥラニの指揮のもとにこの両帝国の衰退をもたらし、その領土の多くの部分を18世紀に若きアフガニスタン王国に組み入れることになった。 | ||
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+ | カンダハルは18世紀に近代アフガニスタン初代国王アハマド・シャー・ドゥラニ により都市として創られた。創建から1773年まで、アフガニスタンの首都でもあった。 | ||
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+ | 20世紀末のアフガニスタン内戦では1994年8月にタリバン最初期の占領地となり、タリバンの勢力拡大の物心両面の本拠として重要な地位を占める。タリバンがアフガニスタン・イスラム首長国(タリバン政権)を建国した際には、カンダハルには国家元首であるムハンマド・オマルが常住し、政権の最高指導機関である最高評議会が設置された。首都カブールには政府機関が所在していたが、それらもカンダハルのオマルの承認なしにはいかなる政策も実行することができず、カンダハルはアフガニスタン・イスラム首長国の事実上の首都の感を呈した。 | ||
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+ | 2001年のアメリカのアフガニスタン侵攻、北部同盟の大攻勢で首都カブールが失われた後もカンダハルはタリバン側の最後の拠点となり、12月6日の明け渡しまで激しい攻防戦が繰り広げられた。タリバンの撤退後、タリバンの残党による小規模な武力集団が周辺地域に広く展開した。タリバンに代わって、かつて同地域を支配したパシュトゥン人の軍閥指導者グル・アガー・シェルザイがカンダハル州を掌握したが、タリバンの台頭を許した腐敗の温床が再現されることが、かえって懸念された。 | ||
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+ | 2007年時点でアメリカに支援を受けたカルザイ大統領率いる新政府が、カンダハール市を完全に掌握している。現知事はアサッドラー・ハリド。 | ||
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+ | ■果樹園からケシ畑へ | ||
- | ■果樹園からケシ畑へ | + | カンダハルは砂漠の中のオアシス都市で、果樹の豊かさでこの地域全体に知られている。ここのザクロは千年前に書かれたペルシャの医者の処方箋に記され、全盛期にはデリーの英インド総督の食卓に供されていた。タリバンの全国制覇のための大きな資金源となったカンダハルのトラック運送業者たちがその仕事を始めたのは、前世紀にカンダハルの果物をデリーやカルカッタに運び出した時である。 |
- | カンダハルは砂漠の中のオアシス都市で、果樹の豊かさでこの地域全体に知られている。ここのザクロは千年前に書かれたペルシャの医者の処方箋に記されていたし、全盛期にはデリーの英インド総督の食卓に供されていた。タリバンの全国制覇のための大きな資金源となったカンダハルのトラック運送業者たちがその仕事を始めたのは、前世紀にカンダハルの果物をデリーやカルカッタに運び出した時だった。 | + | 果樹園は戦争前まで手入れが行き届いていたが、ソ連軍とムジャヒディンがたくさんの地雷を埋めたため、農民たちはパキスタンに逃れ、果樹園は放棄された。 |
- | 果樹園は戦争前まで手入れが行き届いていたが、ソ連軍とムジャヒディンがたくさんの地雷を埋めたため、農民たちはパキスタンに逃れ、果樹園は放棄された。 | + | カンダハルは今や世界で最も多くの地雷が埋められた都市である。 平坦な地形にも関わらず、周辺の農業地帯を素早く支配したムジャヒディンにこうした果樹園や水路が隠れ場所を提供し、市内のソ連軍を孤立させた。ソ連軍はその報復に、数千本の果樹を切り倒し、水路を徹底的に破壊した。1990年以降、避難民たちが荒れ果てた果樹園に戻ってきた。かれらは生活の糧を得るために消しを育て、それがタリバンの重要な資金源となった。 |
- | カンダハルは今や世界で最も多くの地雷が埋められた都市である。 | ||
- | 平坦な地形にも関わらず、周辺の農業地帯を素早く支配したムジャヒディンにこうした果樹園や水路が隠れ場所を提供し、市内のソ連軍を孤立させた。ソ連軍はその報復に、数千本の果樹を切り倒し、水路を徹底的に破壊した。1990年以降、避難民たちが荒れ果てた果樹園に戻ってきた。かれらは生活の糧を得るために消しを育て、それがタリバンの重要な資金源となった。 | ||
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+ | 参考文献 『タリバン イスラム原理主義の戦士たち』 | ||
- | 20世紀末のアフガニスタン内戦では1994年8月にターリバーン最初期の占領地となり、ターリバーンの勢力拡大の物心両面の本拠として重要な地位を占める。ターリバーンがアフガニスタン・イスラム首長国(ターリバーン政権)を建国した際には、カンダハールには国家元首(首長/アミール・アル=ムウミニーン)であるムハンマド・オマルが常住するとともに、政権の最高指導機関である最高評議会が設置された。首都カーブルには政府機関が所在していたが、それらもカンダハールのオマルの承認なしにはいかなる政策も実行することができず、カンダハールはアフガニスタン・イスラム首長国の事実上の首都の感を呈した。 | + | 【アフガニスタン大使館】http://www.afghanembassyjp.com/jp/life/?pn=11 |
- | 2001年のアメリカのアフガニスタン侵攻、北部同盟の大攻勢で首都カーブルが失われた後もカンダハールはターリバーン側の最後の拠点となり、12月6日の明け渡しまで激しい攻防戦が繰り広げられた。ターリバーンの撤退後、ターリバーンの残党による小規模な武力集団が周辺地域に広く展開した。ターリバーンに代わって、かつて同地域を支配したパシュトゥーン人の軍閥指導者グル・アーガー・シェールザイーがカンダハール州を掌握したが、タリバンの台頭を許した腐敗の温床が再現されることが、かえって懸念された。 | ||
- | 2007年現在、アメリカに支援を受けたカルザイ大統領率いる新政府が、カンダハール市を完全に掌握している。現知事はアサッドラー・ハリド。 | + | --Bunkyo-student2008 2009年6月17日 (水) 19:28 (JST) Cos |
2009年6月18日 (木) 17:26の版
■名称
アレキサンダーの東方の名であるセカンダルあるいはエスカンダルに由来する。
■概要
カンダハルは現在人口50万人弱のアフガニスタン第2の都市である。戦争前の1979年の人口は約25万人であったが、終結後には約1/2にまで落ち込んでいた。国の南部に位置し、南部幹線道路のカブールとヘラートのほぼ真中にある。
旧市街は約2km x 1.5kmの長方形で、市の中心チャル・スクで交差する4本の大きな通りによって四つの区域に分けられている。以前は、旧市街は高さ30フィートの城壁で囲まれていたが、その城壁は東と南の小さな部分を除いて、市が城壁を越えて拡大するのにともない、1940年代までにほとんど取り壊されてしまった。カンダハルの新市街(シャハル・ナウ)は旧市街の西側にあり、大通りの両側に約2.5kmずつの広がりをもっている。
■歴史
アレキサンダー大王の時代からタリバーンの時代まで , 何世紀もの間、カンダハールは歴史的、戦略的に重要な都市であった。
古代カンダハルは紀元前500年まで遡ることができるが、隣村のムンディガク村には紀元前3000年前の青銅器時代から人が住んでおり、古代インダス文明の一部だった。カンダハルは東はボラン峠を越え、シンドそしてアラビア海へ、西はヘラートからイランへと続く古代貿易路の結び目に位置していたため、貿易商の町だった。この街はイランとインドを行き来する交易、美術・工芸品の通過点で、バザールは何世紀にもわたって有名であった。
16、17世紀には、この地を争ってペルシアのサファヴィー帝国とインドのムガル帝国の間で繰り返し戦争が行われた。独立意識の強いカンダハルのアフガニスタン人は、最初はミル・ワイス・ホッタク、後にはアハマド・シャー・ドゥラニの指揮のもとにこの両帝国の衰退をもたらし、その領土の多くの部分を18世紀に若きアフガニスタン王国に組み入れることになった。
カンダハルは18世紀に近代アフガニスタン初代国王アハマド・シャー・ドゥラニ により都市として創られた。創建から1773年まで、アフガニスタンの首都でもあった。
20世紀末のアフガニスタン内戦では1994年8月にタリバン最初期の占領地となり、タリバンの勢力拡大の物心両面の本拠として重要な地位を占める。タリバンがアフガニスタン・イスラム首長国(タリバン政権)を建国した際には、カンダハルには国家元首であるムハンマド・オマルが常住し、政権の最高指導機関である最高評議会が設置された。首都カブールには政府機関が所在していたが、それらもカンダハルのオマルの承認なしにはいかなる政策も実行することができず、カンダハルはアフガニスタン・イスラム首長国の事実上の首都の感を呈した。
2001年のアメリカのアフガニスタン侵攻、北部同盟の大攻勢で首都カブールが失われた後もカンダハルはタリバン側の最後の拠点となり、12月6日の明け渡しまで激しい攻防戦が繰り広げられた。タリバンの撤退後、タリバンの残党による小規模な武力集団が周辺地域に広く展開した。タリバンに代わって、かつて同地域を支配したパシュトゥン人の軍閥指導者グル・アガー・シェルザイがカンダハル州を掌握したが、タリバンの台頭を許した腐敗の温床が再現されることが、かえって懸念された。
2007年時点でアメリカに支援を受けたカルザイ大統領率いる新政府が、カンダハール市を完全に掌握している。現知事はアサッドラー・ハリド。
■果樹園からケシ畑へ
カンダハルは砂漠の中のオアシス都市で、果樹の豊かさでこの地域全体に知られている。ここのザクロは千年前に書かれたペルシャの医者の処方箋に記され、全盛期にはデリーの英インド総督の食卓に供されていた。タリバンの全国制覇のための大きな資金源となったカンダハルのトラック運送業者たちがその仕事を始めたのは、前世紀にカンダハルの果物をデリーやカルカッタに運び出した時である。
果樹園は戦争前まで手入れが行き届いていたが、ソ連軍とムジャヒディンがたくさんの地雷を埋めたため、農民たちはパキスタンに逃れ、果樹園は放棄された。
カンダハルは今や世界で最も多くの地雷が埋められた都市である。 平坦な地形にも関わらず、周辺の農業地帯を素早く支配したムジャヒディンにこうした果樹園や水路が隠れ場所を提供し、市内のソ連軍を孤立させた。ソ連軍はその報復に、数千本の果樹を切り倒し、水路を徹底的に破壊した。1990年以降、避難民たちが荒れ果てた果樹園に戻ってきた。かれらは生活の糧を得るために消しを育て、それがタリバンの重要な資金源となった。
参考文献 『タリバン イスラム原理主義の戦士たち』
【アフガニスタン大使館】http://www.afghanembassyjp.com/jp/life/?pn=11
--Bunkyo-student2008 2009年6月17日 (水) 19:28 (JST) Cos