タリバン
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2009年6月17日 (水) 18:44の版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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- | ターリバーン (طالبان Tālibān) は、パキスタンとアフガニスタンで活動するイスラーム主義運動。2001年11月頃までアフガニスタンを実効支配していた。日本では通常タリバン(またはタリバーン)と表記される。 | + | タリバン (طالبان Tālibān) は、パキスタンとアフガニスタンで活動するイスラーム主義運動。2001年11月頃までアフガニスタンを実効支配していた。タリバーン、ターリバーンと表記されることもある。タリバンの最高指導者はムラー・モハメド・オマル。ただし2001年以降は生死不明である。 |
- | ターリバーンの最高指導者はムラー・モハメド・オマル。ただし2001年以降は生死不明である。 | + | |
- | タリバン誕生に至った経緯についてはこちらを参照のこと。 | + | タリバン誕生に至った経緯については[[アフガニスタン--タリバンの誕生の経緯--]] |
+ | を参照のこと。 | ||
■指導者が選ばれた経緯 | ■指導者が選ばれた経緯 | ||
- | タリバンという名称は、タリブ(イスラム学生)の複数形から来ている。 | + | タリバンという名称は、タリブ(イスラム学生)の複数形から来ている。 |
- | 分散してはいたが、深くこの事態を憂慮していた各グループのマドラサの学生たちがムラー・モハメド・オマルの元に集まり、タリバンという組織を名乗った。 | + | 分散してはいたが、深くこの事態([[アフガニスタン--タリバンの誕生の経緯--]])を憂慮していた各グループのマドラサの学生たちがムラー・モハメド・オマルの元に集まり、タリバンという組織を名乗った。 |
- | 何人かのタリバンは、オマルが指導者として選ばれた理由は彼の政治的、軍事的能力ではなく、その敬虔な揺るぎないイスラム信仰のためである、または、神によって選ばれたのだと語っている。 | + | 何人かのタリバンは、オマルが指導者として選ばれた理由は彼の政治的、軍事的能力ではなく、その敬虔な揺るぎないイスラム信仰のためである、または、神によって選ばれたのだと語っている。 |
- | オマル自身はパキスタン人ジャーナリストのヒムラ・ユスフザイにこう話している「われわれは、アフガニスタンの聖戦の目的を達成し、ムジャヒディンという者たちによって人々がこれ以上苦しめられないよう、武器を取って立ち上がった。われわれは全能の神への完全な信仰をもっている。われわれは、決してそれを忘れない。髪はわれわれを勝利で祝福することも、敗北に突き落とすこともできるのだ」 | + | オマル自身はパキスタン人ジャーナリストのヒムラ・ユスフザイにこう話している「われわれは、アフガニスタンの聖戦の目的を達成し、ムジャヒディンという者たちによって人々がこれ以上苦しめられないよう、武器を取って立ち上がった。われわれは全能の神への完全な信仰をもっている。われわれは、決してそれを忘れない。髪はわれわれを勝利で祝福することも、敗北に突き落とすこともできるのだ」 |
- | 全能の神を絶対とする揺るぎない信仰が、混沌と流血の中で育ち、マドラサで学んでいた多くの学生を引き付けたようだ。 | + | 全能の神を絶対とする揺るぎない信仰が、混沌と流血の中で育ち、マドラサで学んでいた多くの学生を引き付けたようだ。 |
■タリバン構成要員 | ■タリバン構成要員 | ||
- | タリバンを構成しているのはかつて300年にわたりアフガニスタンを支配していたパシュトゥン人(アフガニスタン人口の40%を占める)であり、当初その多くはパキスタンのアフガン難民キャンプに作られたマドラサ(イスラム神学校)の神学生から選び出された。 | + | タリバンを構成しているのはかつて300年にわたりアフガニスタンを支配していたパシュトゥン人(アフガニスタン人口の40%を占める)であり、当初その多くはパキスタンのアフガン難民キャンプに作られたマドラサ(イスラム神学校)の神学生から選び出された。 |
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+ | ムラー・オマル、タリバン政権時の法相のムルディン・トラビと前外相のモハメド・ガウスは片目であり、ムラー・ハッサン・レーマニ、カブール市長のアブドル・マジドは片足である。ほかの指導者たち、軍司令官たちも同様に身体障害者である。 | ||
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+ | ムラー・ハッサン・レーマニはタリバンの創設メンバーで、ムラー・オマルに次ぐナンバーツーだと見られている。ソ連軍との熾烈な戦闘を経験した数少ない生き残りである。 | ||
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+ | ■タリバン増軍 | ||
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+ | カンダハルを制圧した後、2万人ほどのアフガン人と数百人のパキスタン人マドラサ学生がパキスタンの難民キャンプから、ムラー・オマルのもとに加わった。北への進軍の間に、更に数千のアフガン・パシュトゥン人が加わった。 | ||
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+ | タリバン軍に新たに加わった構成要員大部分は14~24歳であり、難民キャンプのマドラサ(アフガン人のムラーやパキスタンのイスラム原理主義政党によって設営)でイスラム教育を受けた。 | ||
+ | ここでの教育とは、数学、科学、歴史や地理等ではない。コーラン、ムハンマドの言葉とイスラム法の基礎、そして銃の扱い方である。休息や仕事が無く、貧困と戦争だけがあるという自覚もない戦争孤児にとっては救世主的・清教徒的イスラムの単純な信仰が全てなのだとパキスタンのジャーナリスト、アハメド・ラシッドは解釈している。 | ||
+ | タリバンが圧倒的な勝利を始めた最初の数か月に、神の兵士だけが持つ不敗神話が作り出された。厳しい日々の中で、神は彼らの側にあり、彼らのイスラム解釈だけが唯一の解釈なのだという信念が勝利のたびに強まる事になる。 | ||
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+ | ■タリバンの兄弟集団 | ||
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+ | タリバンの指導者は男性だけの兄弟的集団を作らせ、そこに方々より集まった戦争孤児を組み込ませた。そこで、宗教の教義から始まり、神に全てを奉仕する生活の仕方を教えた事で、彼らの存在を彼らにとって意味あるものに変えたと言える。 | ||
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+ | 「タリバンは、目的達成のために規律正しく、動機が明確で、非情だという点で、イスラムと戦うために宗教的軍令を布告した十字軍とそっくりである」と、ラシッドは指摘している。 | ||
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+ | 彼らの多くは母親、姉妹等の女性無しに育っている。そうでない若者たちも、女性は誘惑的で男性をアラーへの奉仕から引き離す不必要なものだと強調する保守的なパシュトゥン社会のムラーによって、女性とは隔離されて育っている。 | ||
- | ムラー・オマル、タリバン政権時の法相のムルディン・トラビと前外相のモハメド・ガウスは片目であり、ムラー・ハッサン・レーマニ、カブール市長のアブドル・マジドは片足である。ほかの指導者たち、軍司令官たちも同様に身体障害者である。 | ||
- | ムラー・ハッサン・レーマニはタリバンの創設メンバーで、ムラー・オマルに次ぐナンバーツーだと見られている。ソ連軍と戦闘した数少ない経験者である。 | ||
■タリバンの統治思想 | ■タリバンの統治思想 | ||
- | 極端に厳しく解釈したシャリーア(イスラム法)を実施した。女子学校を閉鎖し、女性は仕事に就くことはおろか、買い物に出ることさえ禁じられた。同時にタリバンはあらゆる種類の娯楽(音楽、TV、ゲーム、スポーツ等)を禁止した。 | + | 極端に厳しく解釈したシャリーア(イスラム法)を実施した。女子学校を閉鎖し、女性は仕事に就くことはおろか、買い物に出ることさえ禁じられた。同時にタリバンはあらゆる種類の娯楽(音楽、TV、ゲーム、スポーツ等)を禁止した。 |
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+ | 最高指導者ムラー・オマルの秘書長であるムラー・ワクリは「われわれは政治や経済を認めないし、公務員や兵士に与えるのは食糧、衣服、銃だけで、給料は出さない。われわれは、アフガニスタンの地に、預言者モハメッドが生きていた1400年前の世界を再現するのだ」とパキスタンのジャーナリスト、アハメド・ラシッドに語っている。 | ||
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+ | なぜ娯楽を禁止するのかという問いには、「公園で花を愛でるのがイスラムだ」と[[カンダハル]]州のムラー・モハメド・ハッサン知事は答えた。 | ||
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+ | タリバンの支配下では、アフガニスタンはポルポト派が支配したカンボジアのような原始社会に戻っていった。そこには電気やガスといった最低限のインフラさえない。彼らは2500年も前に作られたバーミヤンの巨大石仏さえ破壊した。各省庁は機能をほぼ停止し、午後は祈りと昼寝の時間となった。 | ||
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+ | 2千万人もの人口を抱えながら、タリバン政権の財政省が編成した年間の国家予算は約10万ドルにすぎない。首都カブールでさえ、市民の平均的月給は3ドル程度。全国で稼働している工場は、義足、松葉杖、車いすなどを作る所だけという有様であった。 | ||
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+ | ■女性の人権に対する思想 | ||
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+ | タリバンがカンダハルに来た際、女性達に、外で働くこと、学校に行くこと、買い物に出ることさえも禁じて家庭に閉じ込めたが、マドラサの若者たちの大部分はこうした借地をなにも異常だとは思わなかった。 | ||
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+ | タリバンと他のムジャヒディンとの根本的な相違点は、女性の従属が新の信仰者の使命とされている事である。 | ||
- | 最高指導者ムラー・オマルの秘書長であるムラー・ワクリは「われわれは政治や経済を認めないし、公務員や兵士に与えるのは食糧、衣服、銃だけで、給料は出さない。われわれは、アフガニスタンの地に、預言者モハメッドが生きていた1400年前の世界を再現するのだ」とパキスタンのジャーナリスト、アハメド・ラシッドに語っている。 | ||
- | なぜ娯楽を禁止するのかという問いには、「公園で花を愛でるのがイスラムだ」とカンダハル州のムラー・モハメド・ハッサン知事は答えた。 | + | そんな彼らが公園で花を愛でていたのかどうかは定かではない。 |
- | タリバンの支配下では、アフガニスタンはポルポト派が支配したカンボジアのような原始社会に戻っていった。そこには電気やガスといった最低限のインフラさえない。彼らは2500年も前に作られたバーミヤンの巨大石仏さえ破壊した。各省庁は機能をほぼ停止し、午後は祈りと昼寝の時間となった。 | ||
- | 2千万人もの人口を抱えながら、タリバン政権の財政省が編成した年間の国家予算は約10万ドルにすぎない。首都カブールでさえ、市民の平均的月給は3ドル程度。全国で稼働している工場は、義足、松葉杖、車いすなどを作る所だけという有様である。 | + | ---- |
+ | 参考文献 『タリバン イスラム原理主義の戦士たち』 | ||
+ | http://www.asyura.com/ | ||
- | 彼らが公園で花を愛でていたのかどうかは定かではない。 | + | --[[利用者:Bunkyo-student2008|Bunkyo-student2008]] 2009年6月17日 (水) 19:28 (JST) Cos |
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タリバン (طالبان Tālibān) は、パキスタンとアフガニスタンで活動するイスラーム主義運動。2001年11月頃までアフガニスタンを実効支配していた。タリバーン、ターリバーンと表記されることもある。タリバンの最高指導者はムラー・モハメド・オマル。ただし2001年以降は生死不明である。
タリバン誕生に至った経緯についてはアフガニスタン--タリバンの誕生の経緯-- を参照のこと。
■指導者が選ばれた経緯
タリバンという名称は、タリブ(イスラム学生)の複数形から来ている。 分散してはいたが、深くこの事態(アフガニスタン--タリバンの誕生の経緯--)を憂慮していた各グループのマドラサの学生たちがムラー・モハメド・オマルの元に集まり、タリバンという組織を名乗った。
何人かのタリバンは、オマルが指導者として選ばれた理由は彼の政治的、軍事的能力ではなく、その敬虔な揺るぎないイスラム信仰のためである、または、神によって選ばれたのだと語っている。
オマル自身はパキスタン人ジャーナリストのヒムラ・ユスフザイにこう話している「われわれは、アフガニスタンの聖戦の目的を達成し、ムジャヒディンという者たちによって人々がこれ以上苦しめられないよう、武器を取って立ち上がった。われわれは全能の神への完全な信仰をもっている。われわれは、決してそれを忘れない。髪はわれわれを勝利で祝福することも、敗北に突き落とすこともできるのだ」
全能の神を絶対とする揺るぎない信仰が、混沌と流血の中で育ち、マドラサで学んでいた多くの学生を引き付けたようだ。
■タリバン構成要員
タリバンを構成しているのはかつて300年にわたりアフガニスタンを支配していたパシュトゥン人(アフガニスタン人口の40%を占める)であり、当初その多くはパキスタンのアフガン難民キャンプに作られたマドラサ(イスラム神学校)の神学生から選び出された。
ムラー・オマル、タリバン政権時の法相のムルディン・トラビと前外相のモハメド・ガウスは片目であり、ムラー・ハッサン・レーマニ、カブール市長のアブドル・マジドは片足である。ほかの指導者たち、軍司令官たちも同様に身体障害者である。
ムラー・ハッサン・レーマニはタリバンの創設メンバーで、ムラー・オマルに次ぐナンバーツーだと見られている。ソ連軍との熾烈な戦闘を経験した数少ない生き残りである。
■タリバン増軍
カンダハルを制圧した後、2万人ほどのアフガン人と数百人のパキスタン人マドラサ学生がパキスタンの難民キャンプから、ムラー・オマルのもとに加わった。北への進軍の間に、更に数千のアフガン・パシュトゥン人が加わった。
タリバン軍に新たに加わった構成要員大部分は14~24歳であり、難民キャンプのマドラサ(アフガン人のムラーやパキスタンのイスラム原理主義政党によって設営)でイスラム教育を受けた。 ここでの教育とは、数学、科学、歴史や地理等ではない。コーラン、ムハンマドの言葉とイスラム法の基礎、そして銃の扱い方である。休息や仕事が無く、貧困と戦争だけがあるという自覚もない戦争孤児にとっては救世主的・清教徒的イスラムの単純な信仰が全てなのだとパキスタンのジャーナリスト、アハメド・ラシッドは解釈している。 タリバンが圧倒的な勝利を始めた最初の数か月に、神の兵士だけが持つ不敗神話が作り出された。厳しい日々の中で、神は彼らの側にあり、彼らのイスラム解釈だけが唯一の解釈なのだという信念が勝利のたびに強まる事になる。
■タリバンの兄弟集団
タリバンの指導者は男性だけの兄弟的集団を作らせ、そこに方々より集まった戦争孤児を組み込ませた。そこで、宗教の教義から始まり、神に全てを奉仕する生活の仕方を教えた事で、彼らの存在を彼らにとって意味あるものに変えたと言える。
「タリバンは、目的達成のために規律正しく、動機が明確で、非情だという点で、イスラムと戦うために宗教的軍令を布告した十字軍とそっくりである」と、ラシッドは指摘している。
彼らの多くは母親、姉妹等の女性無しに育っている。そうでない若者たちも、女性は誘惑的で男性をアラーへの奉仕から引き離す不必要なものだと強調する保守的なパシュトゥン社会のムラーによって、女性とは隔離されて育っている。
■タリバンの統治思想
極端に厳しく解釈したシャリーア(イスラム法)を実施した。女子学校を閉鎖し、女性は仕事に就くことはおろか、買い物に出ることさえ禁じられた。同時にタリバンはあらゆる種類の娯楽(音楽、TV、ゲーム、スポーツ等)を禁止した。
最高指導者ムラー・オマルの秘書長であるムラー・ワクリは「われわれは政治や経済を認めないし、公務員や兵士に与えるのは食糧、衣服、銃だけで、給料は出さない。われわれは、アフガニスタンの地に、預言者モハメッドが生きていた1400年前の世界を再現するのだ」とパキスタンのジャーナリスト、アハメド・ラシッドに語っている。
なぜ娯楽を禁止するのかという問いには、「公園で花を愛でるのがイスラムだ」とカンダハル州のムラー・モハメド・ハッサン知事は答えた。
タリバンの支配下では、アフガニスタンはポルポト派が支配したカンボジアのような原始社会に戻っていった。そこには電気やガスといった最低限のインフラさえない。彼らは2500年も前に作られたバーミヤンの巨大石仏さえ破壊した。各省庁は機能をほぼ停止し、午後は祈りと昼寝の時間となった。
2千万人もの人口を抱えながら、タリバン政権の財政省が編成した年間の国家予算は約10万ドルにすぎない。首都カブールでさえ、市民の平均的月給は3ドル程度。全国で稼働している工場は、義足、松葉杖、車いすなどを作る所だけという有様であった。
■女性の人権に対する思想
タリバンがカンダハルに来た際、女性達に、外で働くこと、学校に行くこと、買い物に出ることさえも禁じて家庭に閉じ込めたが、マドラサの若者たちの大部分はこうした借地をなにも異常だとは思わなかった。
タリバンと他のムジャヒディンとの根本的な相違点は、女性の従属が新の信仰者の使命とされている事である。
そんな彼らが公園で花を愛でていたのかどうかは定かではない。
参考文献 『タリバン イスラム原理主義の戦士たち』
--Bunkyo-student2008 2009年6月17日 (水) 19:28 (JST) Cos