アフガン戦争

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-==アフガン戦争== 
アフガニスタンでは近代以降断続的に戦争が起こっているが(アフガニスタン紛争)、アフガン戦争(Afghun Wars)とはアフガニスタンで生じた戦争のうち、19世紀から20世紀初頭に行われたアフガニスタンとイギリス間の三次にわたる戦争のこと。アングロ・アフガン戦争ともいう。三次にわたったこの戦争でイギリス軍は目的を達成できなかったばかりか、第一次アフガン戦争ではイギリス植民地戦争の歴史上、アメリカ独立戦争(1775年-1783年)に匹敵する敗北に終わった。 アフガニスタンでは近代以降断続的に戦争が起こっているが(アフガニスタン紛争)、アフガン戦争(Afghun Wars)とはアフガニスタンで生じた戦争のうち、19世紀から20世紀初頭に行われたアフガニスタンとイギリス間の三次にわたる戦争のこと。アングロ・アフガン戦争ともいう。三次にわたったこの戦争でイギリス軍は目的を達成できなかったばかりか、第一次アフガン戦争ではイギリス植民地戦争の歴史上、アメリカ独立戦争(1775年-1783年)に匹敵する敗北に終わった。
-第一次アフガン戦争(1838年-1842年)+第一次アフガン戦争(1838年-1842年)<BR>
-第二次アフガン戦争(1878年-1881年)+第二次アフガン戦争(1878年-1881年)<BR>
第三次アフガン戦争(1919年) 第三次アフガン戦争(1919年)
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===シムラ宣言=== ===シムラ宣言===
1826年、現在のアフガニスタン国家の原型であるドゥッラーニー朝の王家に代わってドースト・ムハンマドがバーラクザイ朝を興した。ドーストは王位についたあと南のシーク教徒、西のペルシャ人との戦いを続けたが、イギリスはインド植民地維持の方策として分離統治を行っていた。すなわちイスラム教徒とヒンズー教徒の対立を温存し、両者を被支配民族の地位に置き、一方シーク教徒やネパール人の半独立を許し、傭兵として軍事力に使ったのである。ドーストは有能な君主ではあったが、退位したデュラニ王朝の元国王シュジャー・シャーを倒すことができなかった。シュジャー・シャーはペシャワールを統治するランジット・シンに身を寄せており、ドーストはペシャワールをアフガニスタンにとり不可分の領土だとみなしていた。一方、イギリスのインド総督オークランド卿はドーストの権力掌握を恐れ、1938年10月1日シムラ宣言を発表し、宣戦布告とした(「ドースト・ムハンマドはイギリス以外の国と悪だくみを企ており、友好的とはみなせない。従ってドストを王位から追放し、シャー・シュジャーに代える。」)。これが第一次アフガン戦争の始まりである。 1826年、現在のアフガニスタン国家の原型であるドゥッラーニー朝の王家に代わってドースト・ムハンマドがバーラクザイ朝を興した。ドーストは王位についたあと南のシーク教徒、西のペルシャ人との戦いを続けたが、イギリスはインド植民地維持の方策として分離統治を行っていた。すなわちイスラム教徒とヒンズー教徒の対立を温存し、両者を被支配民族の地位に置き、一方シーク教徒やネパール人の半独立を許し、傭兵として軍事力に使ったのである。ドーストは有能な君主ではあったが、退位したデュラニ王朝の元国王シュジャー・シャーを倒すことができなかった。シュジャー・シャーはペシャワールを統治するランジット・シンに身を寄せており、ドーストはペシャワールをアフガニスタンにとり不可分の領土だとみなしていた。一方、イギリスのインド総督オークランド卿はドーストの権力掌握を恐れ、1938年10月1日シムラ宣言を発表し、宣戦布告とした(「ドースト・ムハンマドはイギリス以外の国と悪だくみを企ており、友好的とはみなせない。従ってドストを王位から追放し、シャー・シュジャーに代える。」)。これが第一次アフガン戦争の始まりである。
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 +参考資料<BR>
 +「第一次世界大戦と20世紀サイト」 http://ww1.m78.com/index.html

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アフガニスタンでは近代以降断続的に戦争が起こっているが(アフガニスタン紛争)、アフガン戦争(Afghun Wars)とはアフガニスタンで生じた戦争のうち、19世紀から20世紀初頭に行われたアフガニスタンとイギリス間の三次にわたる戦争のこと。アングロ・アフガン戦争ともいう。三次にわたったこの戦争でイギリス軍は目的を達成できなかったばかりか、第一次アフガン戦争ではイギリス植民地戦争の歴史上、アメリカ独立戦争(1775年-1783年)に匹敵する敗北に終わった。

第一次アフガン戦争(1838年-1842年)
第二次アフガン戦争(1878年-1881年)
第三次アフガン戦争(1919年)

イギリスとロシアの対立

第一次アフガン戦争は1838年に開始された。つまりワーテルローの戦い(1815年)とアヘン戦争(1840年-1842年)との間に発生した戦争である。当時イギリスはその艦隊によって世界中の制海権を手にしており、アメリカ大陸・カリブ海・インドなど多方面に植民地を有していた。しかし、陸戦において地上兵力を最大に保有するのはロシアであり、当時その勢力は中央アジアからイラン・アフガニスタン、太平洋ではカリフォルニアに達していた。イギリスはインド植民地の維持においてロシアが最大の障害であるとみなし、不凍港を求めるロシアのなんかを脅威と考えた。アフガニスタンはロシアとインドの接点にあたる地理にあり、イギリス・ロシアともにアフガニスタンに軍人を派遣していた。

シムラ宣言

1826年、現在のアフガニスタン国家の原型であるドゥッラーニー朝の王家に代わってドースト・ムハンマドがバーラクザイ朝を興した。ドーストは王位についたあと南のシーク教徒、西のペルシャ人との戦いを続けたが、イギリスはインド植民地維持の方策として分離統治を行っていた。すなわちイスラム教徒とヒンズー教徒の対立を温存し、両者を被支配民族の地位に置き、一方シーク教徒やネパール人の半独立を許し、傭兵として軍事力に使ったのである。ドーストは有能な君主ではあったが、退位したデュラニ王朝の元国王シュジャー・シャーを倒すことができなかった。シュジャー・シャーはペシャワールを統治するランジット・シンに身を寄せており、ドーストはペシャワールをアフガニスタンにとり不可分の領土だとみなしていた。一方、イギリスのインド総督オークランド卿はドーストの権力掌握を恐れ、1938年10月1日シムラ宣言を発表し、宣戦布告とした(「ドースト・ムハンマドはイギリス以外の国と悪だくみを企ており、友好的とはみなせない。従ってドストを王位から追放し、シャー・シュジャーに代える。」)。これが第一次アフガン戦争の始まりである。

参考資料
「第一次世界大戦と20世紀サイト」 http://ww1.m78.com/index.html


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