中津藩

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''小笠原家'' ''小笠原家''
初代 小笠原長次(ながつぐ) 初代 小笠原長次(ながつぐ)
-二代    長勝(ながかつ) +二代 長勝(ながかつ)
-三代    長胤(ながたね) +三代 長胤(ながたね)
-四代    長円(ながのぶ) +四代 長円(ながのぶ)
-五代    長邑(ながさと) +五代 長邑(ながさと)
''奥平家'' ''奥平家''
初代 奥平昌成(まさしげ) 初代 奥平昌成(まさしげ)
-二代   昌敦(まさあつ) +二代 昌敦(まさあつ)
-三代   昌鹿(まさか) +三代 昌鹿(まさか)
-四代   昌男(まさお) +四代 昌男(まさお)
-五代   昌高(まさたか) +五代 昌高(まさたか)
-六代 昌暢(まさのぶ) +六代 昌暢(まさのぶ)
-七代   昌猷(まさみち) +七代 昌猷(まさみち)
-八代   昌服(まさもと) +八代 昌服(まさもと)
-九代   昌邁(まさゆき) +九代 昌邁(まさゆき)
== 中津藩出身の著名人 == == 中津藩出身の著名人 ==

2009年8月1日 (土) 01:34の版

目次

中津藩

豊前(ぶぜん)国下毛(しもげ)郡中津(大分県中津市)に藩庁を置いた藩。豊臣(とよとみ)秀吉の九州平定後、黒田孝高(よしたか)が豊前6郡を与えられて中津に入ったが、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの戦功によって筑前(ちくぜん)福岡に移封。そのあと細川忠興(ただおき)が豊前1国、豊後(ぶんご)国国東(くにさき)、速見(はやみ)2郡を与えられて中津に入ったが、02年には小倉(こくら)城を築いて移り、中津はその支城となった。1632年(寛永9)細川氏が肥後熊本に移ると、播磨(はりま)(兵庫県)龍野(たつの)の小笠原長次(おがさわらながつぐ)が上毛(こうげ)、下毛、宇佐3郡に8万石を与えられて中津に入った。長次のあと長勝、長胤(ながたね)、長円(ながのぶ)、長(ながさと)と続いたが、その間、1698年(元禄11)には長胤の不行跡のため領地を没収され、先祖の勲功によって4万石で相続を許された。しかし1716年(享保1)長が夭逝(ようせい)したため改易となり、そのあと丹後(たんご)(京都府)宮津の奥平昌成(おくだいらまさなり)が上毛、下毛、宇佐3郡および筑前国、備後(びんご)国に10万石を与えられて中津に入った。昌成のあと昌敦(まさあつ)、昌鹿(まさか)、昌男、昌高、昌暢(まさのぶ)、昌猷(まさみち)、昌服(まさもと)、昌邁(まさゆき)と9代続き、廃藩置県に至った。


歴代藩主

細川家 初代  細川忠興(ただおき) 小笠原家 初代 小笠原長次(ながつぐ) 二代 長勝(ながかつ) 三代 長胤(ながたね) 四代 長円(ながのぶ) 五代 長邑(ながさと) 奥平家 初代 奥平昌成(まさしげ) 二代 昌敦(まさあつ) 三代 昌鹿(まさか) 四代 昌男(まさお) 五代 昌高(まさたか) 六代 昌暢(まさのぶ) 七代 昌猷(まさみち) 八代 昌服(まさもと) 九代 昌邁(まさゆき)

中津藩出身の著名人

福沢諭吉(当時下級士族) 前野良沢(  藩医)

参考文献

[1] [2]


  人間科学大事典

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