ウェストフェリア条約
出典: Jinkawiki
2009年8月1日 (土) 18:05の版 Daijiten2009 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
2009年8月2日 (日) 21:07の版 Daijiten2009 (ノート | 投稿記録) 次の差分へ → |
||
1 行 | 1 行 | ||
- | |||
== ウェストフェリア条約 == | == ウェストフェリア条約 == | ||
三十年戦争(1618~48)を終結させた条約。講和会議は、1645年からドイツのウェストファーレンWestfalen(ウェストファリアWestphaliaは英語名)地方のミュンスターとオスナブリュックとに分かれて開かれていたが、48年10月24日にようやく調印された。この条約により、スウェーデンは西ポンメルンとブレーメン大司教領、フェルデン司教領などを、フランスはメス、トゥール、ベルダンの3司教領とアルザスのハプスブルク家領を獲得し、ブランデンブルクは東ポンメルン、マクデブルク大司教領、ミンデン司教領などの領有を、バイエルンは南プファルツの領有と選帝侯位を認められ、スイスとオランダは独立国の地位を承認された。また、教会領については、1624年の状態に戻すことが決められ、また1555年のアウクスブルクの和議で否認されたカルバン派もルター派と同じ資格で承認された。そのほか、ドイツの領邦諸侯と帝国都市は、皇帝と帝国を敵としない限りという条件付きながら、相互の間で、また外国とも同盟する権利を認められた。この条約の結果、それまでヨーロッパで優越的な地位を占めていたハプスブルク家の勢力は後退し、フランスとスウェーデンが強国として台頭するとともに、ドイツ内部ではブランデンブルクの勢力が伸張することになった。一方、ドイツ帝国(神聖ローマ帝国)内の分立主義はいよいよ決定的となり、帝国は名目的存在にすぎなくなった。 | 三十年戦争(1618~48)を終結させた条約。講和会議は、1645年からドイツのウェストファーレンWestfalen(ウェストファリアWestphaliaは英語名)地方のミュンスターとオスナブリュックとに分かれて開かれていたが、48年10月24日にようやく調印された。この条約により、スウェーデンは西ポンメルンとブレーメン大司教領、フェルデン司教領などを、フランスはメス、トゥール、ベルダンの3司教領とアルザスのハプスブルク家領を獲得し、ブランデンブルクは東ポンメルン、マクデブルク大司教領、ミンデン司教領などの領有を、バイエルンは南プファルツの領有と選帝侯位を認められ、スイスとオランダは独立国の地位を承認された。また、教会領については、1624年の状態に戻すことが決められ、また1555年のアウクスブルクの和議で否認されたカルバン派もルター派と同じ資格で承認された。そのほか、ドイツの領邦諸侯と帝国都市は、皇帝と帝国を敵としない限りという条件付きながら、相互の間で、また外国とも同盟する権利を認められた。この条約の結果、それまでヨーロッパで優越的な地位を占めていたハプスブルク家の勢力は後退し、フランスとスウェーデンが強国として台頭するとともに、ドイツ内部ではブランデンブルクの勢力が伸張することになった。一方、ドイツ帝国(神聖ローマ帝国)内の分立主義はいよいよ決定的となり、帝国は名目的存在にすぎなくなった。 | ||
10 行 | 9 行 | ||
+ | == 参考文献 == | ||
+ | ・Yahoo!辞書 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%9D%A1%E7%B4%84/ | ||
- | |||
- | |||
- | |||
- | |||
- | |||
- | |||
- | |||
- | ・Yahoo!辞書 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%9D%A1%E7%B4%84/ | ||
・ウェストフェリア条約 http://www.tabiken.com/history/doc/B/B290L100.HTM | ・ウェストフェリア条約 http://www.tabiken.com/history/doc/B/B290L100.HTM |
2009年8月2日 (日) 21:07の版
ウェストフェリア条約
三十年戦争(1618~48)を終結させた条約。講和会議は、1645年からドイツのウェストファーレンWestfalen(ウェストファリアWestphaliaは英語名)地方のミュンスターとオスナブリュックとに分かれて開かれていたが、48年10月24日にようやく調印された。この条約により、スウェーデンは西ポンメルンとブレーメン大司教領、フェルデン司教領などを、フランスはメス、トゥール、ベルダンの3司教領とアルザスのハプスブルク家領を獲得し、ブランデンブルクは東ポンメルン、マクデブルク大司教領、ミンデン司教領などの領有を、バイエルンは南プファルツの領有と選帝侯位を認められ、スイスとオランダは独立国の地位を承認された。また、教会領については、1624年の状態に戻すことが決められ、また1555年のアウクスブルクの和議で否認されたカルバン派もルター派と同じ資格で承認された。そのほか、ドイツの領邦諸侯と帝国都市は、皇帝と帝国を敵としない限りという条件付きながら、相互の間で、また外国とも同盟する権利を認められた。この条約の結果、それまでヨーロッパで優越的な地位を占めていたハプスブルク家の勢力は後退し、フランスとスウェーデンが強国として台頭するとともに、ドイツ内部ではブランデンブルクの勢力が伸張することになった。一方、ドイツ帝国(神聖ローマ帝国)内の分立主義はいよいよ決定的となり、帝国は名目的存在にすぎなくなった。
影響
この条約によってドイツの犠牲において領土を拡大したのはフランスとスウェーデンである。フランスはメッツ・トウール・ヴェルダンの3司教領、オーストリアがエルザスにもっていた領地・権益、ブライザハ市を割譲されたほか、フィリップスブルク市におげる軍隊駐屯権を認められ、将来ライン左岸地域一帯に進出する基礎を築くことができた。スウェーデンはポメルン西部(フォアポメルン)・ブレーメン大司教領(ブレーメン市を除く)・フェールデン司教領・ヴィスマールを獲得し、ヴェーゼル・エルベ・オーデル3河口地域を押えて、バルト海制覇のための体制を固めることができたほか、500万ターレルの賠償金を受けとった。ドイツの諸侯のなかでは、ブランデンブルクがポメルン東部(ヒンターポメルン)・カミン・ハルバーシュタット・ミンデンの3司教領を得たほか、将来におけるマグデブルク大司教領の継承権を保証されて、最も大きく領土を拡大することができた。
そのほかバイエルンを戦争中に得た上プファルツ(オーバープファルツ)の領有と選帝侯位を認められ、プファルツ選帝侯にはライン流域のプファルツ領が返還されるとともに、バイエルン公に移譲された選帝侯位に代わって、新設されたばかりの選帝侯位が与えられた。
参考文献
・ウェストフェリア条約 http://www.tabiken.com/history/doc/B/B290L100.HTM