征韓論
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- | 征韓論とは、日本の明治初期において、当時留守政府(明治政府首脳部で組織された岩倉使節団が欧米歴訪中にその留守を守るために組織された体制を指す)の首脳であった西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎らによって提唱された。朝鮮の興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを朝鮮の排日的鎖国主義ととらえ、武力を持って朝鮮を開港しようという主張である。 | + | 征韓論とは、日本の明治初期において、当時留守政府(明治政府首脳部で組織された岩倉使節団が欧米歴訪中にその留守を守るために組織された体制を指す)の首脳であった西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎らによって提唱された、武力を持って朝鮮を開港しようという主張である。 |
+ | ただし、「征韓論」の中心的人物であった西郷隆盛の考えは「出兵」ではなく、開国を勧めるために自らが朝鮮に赴く「遣韓使」であったとする説もある。 | ||
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+ | 江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らによって、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられた。こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。明治維新後に対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、意気があがっていた。明治3年2月、明治政府は佐田白茅、森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後征韓を建白した。以後も |
2009年8月4日 (火) 14:22の版
征韓論
征韓論とは、日本の明治初期において、当時留守政府(明治政府首脳部で組織された岩倉使節団が欧米歴訪中にその留守を守るために組織された体制を指す)の首脳であった西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎らによって提唱された、武力を持って朝鮮を開港しようという主張である。 ただし、「征韓論」の中心的人物であった西郷隆盛の考えは「出兵」ではなく、開国を勧めるために自らが朝鮮に赴く「遣韓使」であったとする説もある。
経緯
江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らによって、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられた。こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。明治維新後に対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、意気があがっていた。明治3年2月、明治政府は佐田白茅、森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後征韓を建白した。以後も