ロック

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-==ジョン・ロック==+ ジョン・ロック(John Locke, 1632年8月29日 - 1704年10月28日)はイギリスの哲学者で、ピューリタン信仰者であった。アメリカ独立宣言、フランス人権宣言に大きな影響を与えた。1666年からシャフツベリ伯爵の愛顧を受け、利子率論争で自由放任を主張したり、王権に対する政治・信教の自由を論じたりしたが、1683年に彼が失脚すると、ともにオランダに亡命する。1688年の名誉革命後、帰国。一貫して独断を排し、理性に訴えながら新しい秩序を作り上げようとした。彼の人物像だが、直接的な政治闘争への関わりをなるべく避け、思索の世界に生きたとする説と、積極的に政治の世界に身を投じていたとする説があり、現在も議論が行われている。
- ジョン・ロック(John Locke, 1632年8月29日 - 1704年10月28日)はイギリスの哲学者、社会契約論者、ピューリタン信仰者。彼の著作の大部分は1687年から1693年の間に刊行されている。アメリカ独立宣言、フランス人権宣言に大きな影響を与えた。1632年8月29日に生まれ、父はピューリタン革命期の議会軍の騎兵隊長であった。1646年にウェストミンスター校、1652年にオックスフォード大学入学。1660年にオックスフォード大学のギリシア語講師となる。1666年からシャフツベリ伯爵の愛顧を受け、利子率論争で自由放任を主張したり、王権に対する政治・信教の自由を論じたりしたが、1683年に彼が失脚すると、ともにオランダに亡命する。1688年の名誉革命後、帰国。+
 + ロックが植民地支配を唱えていたことはあまり知られていない。それは本来であれば彼の自由主義思想に反するはずであるのだが、その真相も彼の理論によって究明することが可能である。
-==自然法==+ic
- ロックは社会契約論者であると共に自然法論者でもあった。自然法(しぜんほう、英: Natural law、独: Naturrecht、羅: lex naturae, lex naturalis)とは、事物の自然本性(英: nature、独: Natur、羅: natura)から導き出される法の総称であり、事物の自然本性から導き出される法の総称である。明治時代には、事物の性(さが)に合致する法という意味で、性法(せいほう)という訳語も用いられた。自然法は実在するという前提から出発し、それを何らかの形で実定法秩序と関連づける法理論は、自然法論と呼ばれる。自然法には、原則的に普遍性、不変性、合理性の3つの特徴が見られる。但しいずれにも例外的な理論が存在する。+
 +== 生い立ち ==
 + 1632年8月29日、イギリス南洋部サマセット州のリントンという村にジョン・ロックは誕生した。1649年、厳しい試験に合格し、名門ウェストミンスター・スクールの国費奨学生として学ぶ。そこでギリシア語とラテン語を叩き込まれたのだが、後にそのことを自身が批判している。その後、クライスト・チャーチ・カレッジやトリニティ・カレッジで学び、1660年にオックスフォード大学のギリシア語講師となる。
-==社会契約論==+== 自然法 ==
 + ロックは社会契約論者であると共に自然法論者でもあった。自然法(しぜんほう、英: Natural law、独: Naturrecht、羅: lex naturae, lex naturalis)とは、事物の自然本性(英: nature、独: Natur、羅: natura)から導き出される法の総称であり、事物の自然本性から導き出される法の総称である。執筆のきっかけは、友人であるガブリエル・タワースンとの討論であると言われている。タワースンがロックに自然法に対しての考え方を全面的に展開するよう求め、ロックが書いた8つの論文がそれである。標題は以下の通り。
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 +1)道徳の規則、あるいは自然法は我々に与えられているか。与えられている。
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 +2)自然法は自然の光によって知ることができるか。知ることができる。
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 +3)自然法は人々の心に刻み込まれているか。刻み込まれていない。
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 +4)理性は感覚、経験によって自然法の認識に到達することができるか。到達できる。
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 +5)自然法は人々の普遍的な同委から知ることができるか。知ることはできない。
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 +6)人々は自然法によって拘束されているか。拘束されている。
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 +7)自然法の拘束力は永久で普遍的であるか。永久で普遍的である。
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 +8)各個人のそれぞれの利益は自然法の基礎であるか。基礎でない。
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 +自然法は実在するという前提から出発し、それを何らかの形で実定法秩序と関連づける法理論は、自然法論と呼ばれる。自然法には、原則的に普遍性、不変性、合理性の3つの特徴が見られる。但しいずれにも例外的な理論が存在する。
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 +== 統治二論 ==
 + 執筆は1680年前後が有力。全部で19章から成り、内容は4つの部分に大別することができる。第一の部分は第一章から第六章までで、ここでは第一部のフィルマー批判を受け、まず、国家に先行する自然状態と、そのもとでの人間の権利の考察が行われている。第二の部分は第七章から第十章までは政治社会の成立を論じつつ、国家の任務を明らかにする。第三の部分は第十一章から第十五章までで、ここでは国家の制度が扱われ、最後に第十六章以降で国家の変革えお論ずじている。
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 +== 社会契約論 ==
 国家や社会の起源が、世界の創造主である神ではなく、自由で平等な自然状態に生きる自然人の契約にあることを示したのが社会契約説です。共通の権威を持たない自然人が、『自然権(自衛の為の個人の権力・暴力・制裁)』を放棄して国家(政府)にその権力を一時的に委譲することで政治権力が生成されるとロックは考えた。 ロックの社会契約説は、『統治権力(絶対王権や貴族階級)の正当性』は神の普遍的権威に基づくものであるから、絶対に抵抗してはいけないという中世的な政治認識をコペルニクス的に転換した。中世の政治は伝統主義が貴族政治(封建主義)を正当化し、王権神授説が君主政治(専制主義・絶対王政)を根拠づけ認識されていたが、ロックは伝統主義にも王権神授説にも『自然状態からの権力生成』を経験的に説明する能力がないことを喝破した。    国家や社会の起源が、世界の創造主である神ではなく、自由で平等な自然状態に生きる自然人の契約にあることを示したのが社会契約説です。共通の権威を持たない自然人が、『自然権(自衛の為の個人の権力・暴力・制裁)』を放棄して国家(政府)にその権力を一時的に委譲することで政治権力が生成されるとロックは考えた。 ロックの社会契約説は、『統治権力(絶対王権や貴族階級)の正当性』は神の普遍的権威に基づくものであるから、絶対に抵抗してはいけないという中世的な政治認識をコペルニクス的に転換した。中世の政治は伝統主義が貴族政治(封建主義)を正当化し、王権神授説が君主政治(専制主義・絶対王政)を根拠づけ認識されていたが、ロックは伝統主義にも王権神授説にも『自然状態からの権力生成』を経験的に説明する能力がないことを喝破した。  
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・ジョン・ロックの社会契約説と立憲主義 http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/es001/john_locke.html ・ジョン・ロックの社会契約説と立憲主義 http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/es001/john_locke.html
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 +・ロック 浜林正夫 研究者出版
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 +・ジョン・ロックとアメリカ先住民 自由主義と植民地支配 三浦永光 御茶の水書房

最新版

 ジョン・ロック(John Locke, 1632年8月29日 - 1704年10月28日)はイギリスの哲学者で、ピューリタン信仰者であった。アメリカ独立宣言、フランス人権宣言に大きな影響を与えた。1666年からシャフツベリ伯爵の愛顧を受け、利子率論争で自由放任を主張したり、王権に対する政治・信教の自由を論じたりしたが、1683年に彼が失脚すると、ともにオランダに亡命する。1688年の名誉革命後、帰国。一貫して独断を排し、理性に訴えながら新しい秩序を作り上げようとした。彼の人物像だが、直接的な政治闘争への関わりをなるべく避け、思索の世界に生きたとする説と、積極的に政治の世界に身を投じていたとする説があり、現在も議論が行われている。

 ロックが植民地支配を唱えていたことはあまり知られていない。それは本来であれば彼の自由主義思想に反するはずであるのだが、その真相も彼の理論によって究明することが可能である。

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目次

生い立ち

 1632年8月29日、イギリス南洋部サマセット州のリントンという村にジョン・ロックは誕生した。1649年、厳しい試験に合格し、名門ウェストミンスター・スクールの国費奨学生として学ぶ。そこでギリシア語とラテン語を叩き込まれたのだが、後にそのことを自身が批判している。その後、クライスト・チャーチ・カレッジやトリニティ・カレッジで学び、1660年にオックスフォード大学のギリシア語講師となる。

自然法

 ロックは社会契約論者であると共に自然法論者でもあった。自然法(しぜんほう、英: Natural law、独: Naturrecht、羅: lex naturae, lex naturalis)とは、事物の自然本性(英: nature、独: Natur、羅: natura)から導き出される法の総称であり、事物の自然本性から導き出される法の総称である。執筆のきっかけは、友人であるガブリエル・タワースンとの討論であると言われている。タワースンがロックに自然法に対しての考え方を全面的に展開するよう求め、ロックが書いた8つの論文がそれである。標題は以下の通り。

1)道徳の規則、あるいは自然法は我々に与えられているか。与えられている。

2)自然法は自然の光によって知ることができるか。知ることができる。

3)自然法は人々の心に刻み込まれているか。刻み込まれていない。

4)理性は感覚、経験によって自然法の認識に到達することができるか。到達できる。

5)自然法は人々の普遍的な同委から知ることができるか。知ることはできない。

6)人々は自然法によって拘束されているか。拘束されている。

7)自然法の拘束力は永久で普遍的であるか。永久で普遍的である。

8)各個人のそれぞれの利益は自然法の基礎であるか。基礎でない。

自然法は実在するという前提から出発し、それを何らかの形で実定法秩序と関連づける法理論は、自然法論と呼ばれる。自然法には、原則的に普遍性、不変性、合理性の3つの特徴が見られる。但しいずれにも例外的な理論が存在する。


統治二論

 執筆は1680年前後が有力。全部で19章から成り、内容は4つの部分に大別することができる。第一の部分は第一章から第六章までで、ここでは第一部のフィルマー批判を受け、まず、国家に先行する自然状態と、そのもとでの人間の権利の考察が行われている。第二の部分は第七章から第十章までは政治社会の成立を論じつつ、国家の任務を明らかにする。第三の部分は第十一章から第十五章までで、ここでは国家の制度が扱われ、最後に第十六章以降で国家の変革えお論ずじている。

社会契約論

 国家や社会の起源が、世界の創造主である神ではなく、自由で平等な自然状態に生きる自然人の契約にあることを示したのが社会契約説です。共通の権威を持たない自然人が、『自然権(自衛の為の個人の権力・暴力・制裁)』を放棄して国家(政府)にその権力を一時的に委譲することで政治権力が生成されるとロックは考えた。 ロックの社会契約説は、『統治権力(絶対王権や貴族階級)の正当性』は神の普遍的権威に基づくものであるから、絶対に抵抗してはいけないという中世的な政治認識をコペルニクス的に転換した。中世の政治は伝統主義が貴族政治(封建主義)を正当化し、王権神授説が君主政治(専制主義・絶対王政)を根拠づけ認識されていたが、ロックは伝統主義にも王権神授説にも『自然状態からの権力生成』を経験的に説明する能力がないことを喝破した。  


参考文献

・wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF

       http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95

・ジョン・ロックの社会契約説と立憲主義 http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/es001/john_locke.html

・ロック 浜林正夫 研究者出版

・ジョン・ロックとアメリカ先住民 自由主義と植民地支配 三浦永光 御茶の水書房


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