華族

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== 特権・義務 == == 特権・義務 ==
【特権】 【特権】
-まず儀式めいたものとして、宮中三殿の一つで、三種の神器が安置してある賢所に参拝することができた。+ 
 +まず儀式めいたものとして、宮中三殿の一つで、三種の神器が安置してある賢所に参拝することができた。外国旅行に際しても願い出れば許された。また、三大節(後の四大節)に際して天皇との食事をすることが可能だった。政治的には、貴族院議長職は代々華族が選ばれ、副議長も多くは華族あった。天皇が一泊以上の旅行をする場合の侍従、賢所御祭典の代拝などは華族が担うことができた。つまり、天皇身辺の公務や私的雑務などを優先的に任されたのである。
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 +【義務】
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 +1.皇室および国家えの忠誠
 + 
 +2.男子相続
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 +3.女系相続の排除
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 +4.養子などの家督相続人の身分制限
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 +5.叙爵者の一家創立
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 +6.宮内大臣の監督に服する
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 +7.婚姻などにおける宮内大臣の事前認許
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 +8.特定事項についての届出
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 +9.系譜の提出
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 +10.男子華族の長期義務教育
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 +11.家範を守る
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 +12.子弟を軍人とする
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 +== 肥大化する華族 ==
 +1885年に廃校になった陸軍予備士官学校に象徴されるように、華族子弟の軍人化は進まなかった。しかし、改めて華族の軍務従事の責任と義務を促す傾向が出てくる。軍事教育を徹底することで、華族子弟たちの軍務への関心や協力を高めようとしたのである。こうした教育もあっってか、華族たちの軍事協力も徐々にではあるが盛んになっていった。そして、日清・日露戦争後は大量叙爵となった。その中で特に目をひくのは、東郷平八郎海軍大将である。多くが男爵で、数名が子爵というなか、ただ一人、伯爵を叙爵している。日清・日露戦争で華族となった陸海軍軍人は115名におよび、男爵は110名になる。このことは、公・侯・伯・子・男の構成比を大きく崩し、貴族院における伯・子・男爵議員の定数問題となった。また、陸海軍人の大半が薩長出身者であり、軍人華族の増大は貴族院における薩長閥の勢力拡大ともなった。軍人の華族化と比べると数は少ないが、財閥を中心とした資産家や学者、芸術家など多岐にわたった。
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 +== 敗戦・戦後 ==
 +敗戦必至の時期、華族最高位の近衛文麿は早期和平に奔走していた。その一方で徹底抗戦を主張したものもいた。敗戦時、924家およそ6000人を数えた華族の中には、敗戦を知り辞爵を申し出るものもあった。こうして、1947年の華族総数は889家と敗戦時の924家より35家減少する。そして、敗戦を迎えて華族を監督する宮内省でも、華族制度について自ら検討を始める。審議会では、華族制度温存の流れがあった。民主化にむけた多くの改革指令を出していたGHQだが、華族という制度に対する具体的な提示はなっかた。そうした状況を受けてか、華族たちも自ら華族制度を変えようとは考えていなっかた。
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 +1946年2月、GHQから提示された新たな憲法草案は日本側の翻訳・交渉が行われ、日本国憲法の政府草案として発表される。その第97条に「現に華族その他の地位にあるものについては、その地位は生存中に限りこれを認める」と記されてあった。この草案の衆議院での審議では、修正についての実質的な審査が行われた。この会合で第97条の条文の削除がなされる。そして、日本国憲法が1946年11月3日に公布され、翌年5月3日に施行される。この施行によって華族制度は効力を失い廃止となった。
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 +== 参考文献 ==
 +『華族 近代日本貴族の虚像と実像』 小田部雄次 中公新書 2006年

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目次

華族とは

明治維新直後につくられた制度であり、78年ほど存在した。太平洋戦争後の1947年、日本国憲法の施行によって消滅した特権的な上流階級である。誰が華族になれたのかの原則は一定しておらず、華族たるべき資格は曖昧で時期によって異なる。一般に華族は「皇室の藩屏」と言われ、つまり「天皇家を支える人々」であった。しかし、その実態は単純ではなく、貴族院議員として国政に参加していたことは知られているが、華族全員が貴族院議員であったわけでもない。

華族の始まり

始まりは1869年6月17日である。華族設置の意味は公卿と諸侯、つまり朝廷の公家と版籍奉還した藩知事とを一体化したことにある。これは前年の五箇条の誓文に起因し、王政復古を徹底するにはまず、「官武」(公卿と武家)の別を撤廃する必要があったのである。この日、華族として認められたのは427家。公卿は142家、諸侯285家であった。一般に公卿から列せられた者は「公家華族」、諸侯から列せられた者は「武家華族」と呼ばれた。1884年7月7日、華族例が制定される。これにより華族は新たに維新に大きな活躍があった人々が組み込まれ、また、公・侯・伯・子・男と序列化されるようになる。そして華族の特権・義務などが規定され、華族制度は完成する。

特権・義務

【特権】

まず儀式めいたものとして、宮中三殿の一つで、三種の神器が安置してある賢所に参拝することができた。外国旅行に際しても願い出れば許された。また、三大節(後の四大節)に際して天皇との食事をすることが可能だった。政治的には、貴族院議長職は代々華族が選ばれ、副議長も多くは華族あった。天皇が一泊以上の旅行をする場合の侍従、賢所御祭典の代拝などは華族が担うことができた。つまり、天皇身辺の公務や私的雑務などを優先的に任されたのである。

【義務】

1.皇室および国家えの忠誠

2.男子相続

3.女系相続の排除

4.養子などの家督相続人の身分制限

5.叙爵者の一家創立

6.宮内大臣の監督に服する

7.婚姻などにおける宮内大臣の事前認許

8.特定事項についての届出

9.系譜の提出

10.男子華族の長期義務教育

11.家範を守る

12.子弟を軍人とする

肥大化する華族

1885年に廃校になった陸軍予備士官学校に象徴されるように、華族子弟の軍人化は進まなかった。しかし、改めて華族の軍務従事の責任と義務を促す傾向が出てくる。軍事教育を徹底することで、華族子弟たちの軍務への関心や協力を高めようとしたのである。こうした教育もあっってか、華族たちの軍事協力も徐々にではあるが盛んになっていった。そして、日清・日露戦争後は大量叙爵となった。その中で特に目をひくのは、東郷平八郎海軍大将である。多くが男爵で、数名が子爵というなか、ただ一人、伯爵を叙爵している。日清・日露戦争で華族となった陸海軍軍人は115名におよび、男爵は110名になる。このことは、公・侯・伯・子・男の構成比を大きく崩し、貴族院における伯・子・男爵議員の定数問題となった。また、陸海軍人の大半が薩長出身者であり、軍人華族の増大は貴族院における薩長閥の勢力拡大ともなった。軍人の華族化と比べると数は少ないが、財閥を中心とした資産家や学者、芸術家など多岐にわたった。

敗戦・戦後

敗戦必至の時期、華族最高位の近衛文麿は早期和平に奔走していた。その一方で徹底抗戦を主張したものもいた。敗戦時、924家およそ6000人を数えた華族の中には、敗戦を知り辞爵を申し出るものもあった。こうして、1947年の華族総数は889家と敗戦時の924家より35家減少する。そして、敗戦を迎えて華族を監督する宮内省でも、華族制度について自ら検討を始める。審議会では、華族制度温存の流れがあった。民主化にむけた多くの改革指令を出していたGHQだが、華族という制度に対する具体的な提示はなっかた。そうした状況を受けてか、華族たちも自ら華族制度を変えようとは考えていなっかた。

1946年2月、GHQから提示された新たな憲法草案は日本側の翻訳・交渉が行われ、日本国憲法の政府草案として発表される。その第97条に「現に華族その他の地位にあるものについては、その地位は生存中に限りこれを認める」と記されてあった。この草案の衆議院での審議では、修正についての実質的な審査が行われた。この会合で第97条の条文の削除がなされる。そして、日本国憲法が1946年11月3日に公布され、翌年5月3日に施行される。この施行によって華族制度は効力を失い廃止となった。

参考文献

『華族 近代日本貴族の虚像と実像』 小田部雄次 中公新書 2006年


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