ミヒャエル・エンデ

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== ミヒャエル・エンデとシュタイナー教育 == == ミヒャエル・エンデとシュタイナー教育 ==
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エンデとシュタイナーとの出会いは、彼が17歳の時にさかのぼる。それまで通ったギムナジウムから、知人の紹介でエンデが転校した先がシュタイナー学校であった。詳細は年譜の項に述べるが、エンデは12歳で一度落第も経験しており、いわゆる問題児であったという。学校に対する強い反感も枷となって、転校後もシュタイナー学校の教育方針にすんなりとけこんだ訳ではなかったらしい。が、シュタイナー学校の自由な校風は、エンデにそれなりの開眼をもたらした。「何か本当の勉強ってものをやりたい意欲が湧いてきた。そのためにはあせって先へ進むよりも、じっくり時間をかけて学びたい」。自発的に学ぶことの楽しさを初めて知り得た当時のエンデが、両親に宛てた若やいだ手紙が遺されている(「シュタイナー再発見の旅」子安美知子著)。 エンデとシュタイナーとの出会いは、彼が17歳の時にさかのぼる。それまで通ったギムナジウムから、知人の紹介でエンデが転校した先がシュタイナー学校であった。詳細は年譜の項に述べるが、エンデは12歳で一度落第も経験しており、いわゆる問題児であったという。学校に対する強い反感も枷となって、転校後もシュタイナー学校の教育方針にすんなりとけこんだ訳ではなかったらしい。が、シュタイナー学校の自由な校風は、エンデにそれなりの開眼をもたらした。「何か本当の勉強ってものをやりたい意欲が湧いてきた。そのためにはあせって先へ進むよりも、じっくり時間をかけて学びたい」。自発的に学ぶことの楽しさを初めて知り得た当時のエンデが、両親に宛てた若やいだ手紙が遺されている(「シュタイナー再発見の旅」子安美知子著)。
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影響については、実はさほど重要視しておらず、異文化ショックのような「ものめずらしさ」程度であったと述懐している(「エンデと語る」子安美知子著)。シュタイナー学校が日本で紹介される折にあたっては、一時的にせよエンデがシュタイナー教育の申し子であるような過剰な報道がなされたこともあったらしい。かと言って、エンデが作家として大成したのはシュタイナー教育の賜物だ、などと原因づけ 影響については、実はさほど重要視しておらず、異文化ショックのような「ものめずらしさ」程度であったと述懐している(「エンデと語る」子安美知子著)。シュタイナー学校が日本で紹介される折にあたっては、一時的にせよエンデがシュタイナー教育の申し子であるような過剰な報道がなされたこともあったらしい。かと言って、エンデが作家として大成したのはシュタイナー教育の賜物だ、などと原因づけ
るのはあたらない。子安氏がその著作で指摘するように、エンデ文学とシュタイナー教育を直結することは、早計にすぎると思われる。 るのはあたらない。子安氏がその著作で指摘するように、エンデ文学とシュタイナー教育を直結することは、早計にすぎると思われる。
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 +== エンデとシュタイナー思想 ==
 +シュタイナーの思想については、エンデ本人は、精神のありかたという最も重要な部分においてはシュタイナーの理念によるところが大きいことを認めている。しかし、彼自身がシュタイナー人智学の信望者(アントロポゾーフ)であったかどうかという事については、エンデは明言を避けている。
 +これはおそらく、シュタイナー思想そのものが当時、多くの可能性を秘めて広がり始めた時期でもあったために、信望者の中にもさまざまな幅が生じていたのが一因
 +でもあったろうと思われる。エンデをアントロポゾーフの最大の代表たらんとする動きもあれば、一方では「はてしない物語」映画化に伴い、互いに批判論争をくりひろげた時期もあった。
 +当時の信望者の中でもやや意見が分かれた所でもあるが、シュタイナー思想が「映画を芸術のメディアとして認めない」(「ミヒャエル・エンデ ファンタジー神話と
 +現代」樋口純明著、現在は絶版)立場にあって、エンデはシュタイナーの芸術観は貧しすぎると述べ、また信望者の側からも「背徳のアントロポゾーフ」と呼ばれ大論
 +争をまき起こした経緯を、無視すべきではない。
 +なぜならそこにこそ、エンデとシュタイナーの違いが際立つのであり、作品理解への鍵も、また内包されていると考えるからである。
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 +== 参考文献 ==
 +*http://www.fsinet.or.jp/~necoco/endesu.htm
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2010年1月13日 (水) 11:35の版


ミヒャエル・エンデとシュタイナー教育

エンデとシュタイナーとの出会いは、彼が17歳の時にさかのぼる。それまで通ったギムナジウムから、知人の紹介でエンデが転校した先がシュタイナー学校であった。詳細は年譜の項に述べるが、エンデは12歳で一度落第も経験しており、いわゆる問題児であったという。学校に対する強い反感も枷となって、転校後もシュタイナー学校の教育方針にすんなりとけこんだ訳ではなかったらしい。が、シュタイナー学校の自由な校風は、エンデにそれなりの開眼をもたらした。「何か本当の勉強ってものをやりたい意欲が湧いてきた。そのためにはあせって先へ進むよりも、じっくり時間をかけて学びたい」。自発的に学ぶことの楽しさを初めて知り得た当時のエンデが、両親に宛てた若やいだ手紙が遺されている(「シュタイナー再発見の旅」子安美知子著)。

しかし、そのシュタイナー学校を、エンデは卒業を間近にして2年足らずで退学、俳優学校に転入している。エンデ自身は、シュタイナー学校から当時の自分が受けた 影響については、実はさほど重要視しておらず、異文化ショックのような「ものめずらしさ」程度であったと述懐している(「エンデと語る」子安美知子著)。シュタイナー学校が日本で紹介される折にあたっては、一時的にせよエンデがシュタイナー教育の申し子であるような過剰な報道がなされたこともあったらしい。かと言って、エンデが作家として大成したのはシュタイナー教育の賜物だ、などと原因づけ るのはあたらない。子安氏がその著作で指摘するように、エンデ文学とシュタイナー教育を直結することは、早計にすぎると思われる。


エンデとシュタイナー思想

シュタイナーの思想については、エンデ本人は、精神のありかたという最も重要な部分においてはシュタイナーの理念によるところが大きいことを認めている。しかし、彼自身がシュタイナー人智学の信望者(アントロポゾーフ)であったかどうかという事については、エンデは明言を避けている。 これはおそらく、シュタイナー思想そのものが当時、多くの可能性を秘めて広がり始めた時期でもあったために、信望者の中にもさまざまな幅が生じていたのが一因 でもあったろうと思われる。エンデをアントロポゾーフの最大の代表たらんとする動きもあれば、一方では「はてしない物語」映画化に伴い、互いに批判論争をくりひろげた時期もあった。 当時の信望者の中でもやや意見が分かれた所でもあるが、シュタイナー思想が「映画を芸術のメディアとして認めない」(「ミヒャエル・エンデ ファンタジー神話と 現代」樋口純明著、現在は絶版)立場にあって、エンデはシュタイナーの芸術観は貧しすぎると述べ、また信望者の側からも「背徳のアントロポゾーフ」と呼ばれ大論 争をまき起こした経緯を、無視すべきではない。 なぜならそこにこそ、エンデとシュタイナーの違いが際立つのであり、作品理解への鍵も、また内包されていると考えるからである。



参考文献

http://www.fsinet.or.jp/~necoco/endesu.htm * * * *


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