カスター将軍

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2010年1月30日 (土) 19:32の版
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カスターには軍規を平気で破るなど向こう見ずなところがあり、その傲慢な性格が災いして全滅の憂き目を見た。彼の書き残したメモには、「(弾薬の)包みを持ってきてくれ」とあった。カスターはリトルビッグホーンの戦いでは、輸送馬車に2万4000発の弾薬を置いたまま、兵士達には124発ずつしか弾薬を装備させていなかった。カスター隊の全滅は白人社会に衝撃を与え、「ボズマン・タイムズ」紙は7月3日に第一報を伝えている。7月4日までにはニューヨークにこの事件が電報で届き、7月6日には「ビスマルク・トリビューン」紙が「カスター“虐殺”の第一報」の見出しでこれを伝えている。 カスターには軍規を平気で破るなど向こう見ずなところがあり、その傲慢な性格が災いして全滅の憂き目を見た。彼の書き残したメモには、「(弾薬の)包みを持ってきてくれ」とあった。カスターはリトルビッグホーンの戦いでは、輸送馬車に2万4000発の弾薬を置いたまま、兵士達には124発ずつしか弾薬を装備させていなかった。カスター隊の全滅は白人社会に衝撃を与え、「ボズマン・タイムズ」紙は7月3日に第一報を伝えている。7月4日までにはニューヨークにこの事件が電報で届き、7月6日には「ビスマルク・トリビューン」紙が「カスター“虐殺”の第一報」の見出しでこれを伝えている。
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 +== インディアンから見たかスター将軍 ==
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 +白人社会でのカスター像が上がろうと下がろうと、インディアン社会ではカスターは終始一貫して「民族の虐殺者」であった。妻リビー・カスターの運動もあり、新聞、小説、映画などあらゆるメディアが一世紀に渡ってカスターを「正義の人」と描く一方で、インディアンを「残虐な野蛮人」として描き続け、インディアン民族は理不尽な嫌がらせを耐え忍び続けさせられてきたのであった。状況は1970年前後まで変わらなかった。
 +カスターの名は現実に「民族虐殺者」の代名詞として、現代においても現役である。ニューヨーク州のジョージ・パタキ知事は、2005年までの在任期間中、イロコイ連邦に対して州税の徴収を再三試みた。パタキ知事はインディアン達から「インディアンに対する経済的虐殺者」として「インディアンの憎悪者、ジョージ・カスター・パタキ(カスター将軍のフルネーム)と呼ばれた。

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目次

カスター将軍

カスター将軍の本名はジョージ・アームストロング・カスターで、オハイオ州ニューラムリーで生まれた。カスターはオハイオ州モンローで兄弟と幼い時を過ごした後、オハイオ州ホープデイルのホープデイル大学に進学した。大学時代、貧しい生まれの為にカスターは同級生と石炭運びの仕事を行い、部屋代を稼いでいた。1856年にホープデイル大学を卒業し、両親は聖職者になる様に望んだが、難関であるウェストポイントの入学試験に合格して陸軍の士官候補生となった。カスターは1860年度のクラスで教育を受けたが学業成績は芳しくなく、通常であれば佐官停まりが見えている状態だった。また気性の激しいカスターはしばしば騒動を起こし、退学を警告される事も少なくなかった。しかし幸運な事に南北戦争の勃発が彼に立身出世の機会を与えた。

1861年陸軍士官学校を卒業すると、南北戦争に参加して、シェリダン将軍の元で手柄を立て23歳で北軍義勇軍少将に昇進した。その後西武に活躍の場を求め、正規軍の中佐として第7騎兵隊の指揮官に任命されインディアン戦争の任務に従事するようになる。地位は中佐であるが、軍の慣わしで「将軍」と称されている。 1868年11月、ワシタ川において、無抵抗で和平派のブラック・ケトルをチーフとするシャイアン族をいきなり襲って虐殺。女・子どもを問わない皆殺しだった。スー族からは、その容貌から「パフスカ(長髪野郎)」と呼ばれていた。


カスター将軍の死

1876年6月25日、カスターは自ら700名の部隊を率いてリトルビッグホーン川(インディアン側の呼び名はグリージー・グラス川)をさかのぼって、対白人政策と宗教行事「サン・ダンス」のために集結していた、ダコタ族とラコタ族のスー族、シャイアン族、アラパホ族のインディアン同盟部族からなる総勢約1500名のティピー野営会議場が存在するとの報告を、インディアン斥候から受けた。カスターは騎兵隊を三個分隊に分けて攻撃する事を計画した。

そして一斉攻撃をはやるカスターに対し、副官マーカス・リノは「慎重にいきましょう」と助言し、カスターが最も信頼していた「インディアン斥候」のブラッディ・ナイフ酋長(アリカラ族)も、「敵方としてスー族の数があまりにも多すぎる」と何度も何度も忠告していた。しかし勝ちを焦ったカスターはこれらの意見を無視し、隊を3つに分散させての迂回攻撃を開始した。

リトルビッグホーンの戦いが始まると各部隊は予定通りの進軍を開始したが、マーカス隊は直ぐにシャイアン兵の大群に取り囲まれて身動きが取れなくなった。更にダコタ騎兵の突撃で無防備な左側面を強襲されて完全に敗走に追い込まれた。マーカス隊の兵士は命からがら近くの森林地帯に逃げ込んだが、そこも直ぐにインディアンの追撃を受けて更に逃げ延びなければならなくなった。伝統的な騎兵挟撃「槌と金床」の金床が崩れ、当初の作戦は瓦解した事が明らかだった。しかしカスターは単独で攻撃を継続するという勇気を通り越して無謀に近い攻撃をし、本陣の大軍に取り囲まれた。乱戦の中で指揮を執っていたカスターは銃弾に貫かれ戦死、他の隊員も軒並み殺害され本隊は全滅した。カスターは死の間際に「万歳。野郎ども、奴らを片づけて本隊に戻ろうぜ。」と叫んだと言われている。両軍戦力について、インディアンの数については諸説あるが1800人を超えたという点では一致しており、対するカスター隊は208名だった。カスターを殺した戦士が誰なのかはインディアン間でも論争があり、複数の戦士が名乗りを上げている。

戦いから2日後にテリー准将の援軍が到着して無残に散乱した騎兵隊の遺体を回収、指揮官カスターの遺体には胸と頭に銃創があった。陸軍は戦場に記念墓地を建設してカスターを埋葬、1877年10月10日に母校である陸軍士官学校と陸軍の主催で正式に軍葬が執り行われた。

カスターには軍規を平気で破るなど向こう見ずなところがあり、その傲慢な性格が災いして全滅の憂き目を見た。彼の書き残したメモには、「(弾薬の)包みを持ってきてくれ」とあった。カスターはリトルビッグホーンの戦いでは、輸送馬車に2万4000発の弾薬を置いたまま、兵士達には124発ずつしか弾薬を装備させていなかった。カスター隊の全滅は白人社会に衝撃を与え、「ボズマン・タイムズ」紙は7月3日に第一報を伝えている。7月4日までにはニューヨークにこの事件が電報で届き、7月6日には「ビスマルク・トリビューン」紙が「カスター“虐殺”の第一報」の見出しでこれを伝えている。


インディアンから見たかスター将軍

白人社会でのカスター像が上がろうと下がろうと、インディアン社会ではカスターは終始一貫して「民族の虐殺者」であった。妻リビー・カスターの運動もあり、新聞、小説、映画などあらゆるメディアが一世紀に渡ってカスターを「正義の人」と描く一方で、インディアンを「残虐な野蛮人」として描き続け、インディアン民族は理不尽な嫌がらせを耐え忍び続けさせられてきたのであった。状況は1970年前後まで変わらなかった。 カスターの名は現実に「民族虐殺者」の代名詞として、現代においても現役である。ニューヨーク州のジョージ・パタキ知事は、2005年までの在任期間中、イロコイ連邦に対して州税の徴収を再三試みた。パタキ知事はインディアン達から「インディアンに対する経済的虐殺者」として「インディアンの憎悪者、ジョージ・カスター・パタキ(カスター将軍のフルネーム)と呼ばれた。


参考文献

・カスター将軍最期の日   著者 ウィリアム・O・テイラー、グレッグ・マーティン

・天国(ヴァルハラ)への疾走  著者 マイケル・ブレイク

                                   (BAY)


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